2020年1月号

 

クリスマスのプレゼント

12月はクリスマスムードでいっぱいだ。我が家では12月7日にクリスマスツリーの飾り付けをした。今年も生の木をネットで注文して家に届けてもらった。ニューヨークに住んでいた頃は、生木はこの時期には街の特設売り場で売られていて、その中から選んで配達してもらっていたが、フロリダでうちのあたりでは配達はしてくれないのだ。多くの人は自分で車の天井に縛り付けて運んだり、ワゴン車で運んだりしているようだ。

クリスマスの楽しみと言えばクリスマスプレゼントだ。子供も大人もクリスマスプレゼントをもらうのは楽しみでうきうきする。米国では、クリスマスプレゼントはきれいにラッピングして用意したものをクリスマスツリーの足元に並べておくのが普通だ。誰から誰へのプレゼントかわかるように専用のかわいいシールがあって、それをつけておく。

クリスマスプレゼントのラッピングは結構大変だ。日本のようにデパートの包み紙でプレゼントを渡すということはしない。そもそも米国のデパートやお店は普通の買い物の時と同じでビニールの袋や紙の袋に入れてくれるだけだ。クリスマスの時期にはかわいいデザインのラッピングペーパーやリボンがスーパーやドラッグストアなどでたくさん売られている。それを買って自宅できれいに一つ一つ包む。ラッピングに凝る人は紐やリボンを使ったデコレーション・ラッピングをしたりする。

米国では自分の子供にクリスマスプレゼントをあげる場合は、家庭にもよるが多くの家庭では一人に5個か6個ぐらいは用意する。多い子は一人で10個とかもらう。メインのやや高価なプレゼントは一つか二つだが、日頃でも買うようなTシャツや文房具などを買って細かく分けてラッピングしてプレゼントの数を増やすのだ。開ける楽しみは多い方がよい。夫婦の間でもメインなプレゼントの他に、普段でも必要になって買うような台所用品や日常の衣類とかも買って、プレゼントの数を増やす。

家族でクリスマスプレゼントを開けるタイミングはクリスマスイブの夜か、クリスマス当日25日の朝だ。サンタクロースのことがあるので、小さい子供のいる家庭ではクリスマス当日の朝だ。

親戚が集まるクリスマスパーティーではプレゼント交換のタイミングは家庭による。うちは毎年12月25日にニューヨーク在住の夫の姉の家に夫の親戚が集まってクリスマスパーティーをする。そのパーティーに参加する人全員にプレゼントを用意してそれぞれ交換する。たとえば5夫婦参加するなら各夫婦はあげる相手は4夫婦なのでそれを用意して、大きな紙袋数個を持って姉の家に行く。

それで、うちの場合は年齢が若い順にプレゼントを開けるルールがあって、息子や娘も参加しているので、まず彼らが一つずつこれは誰々からのプレゼントと言いながらラッピングを破って開けて一つ一つプレゼントをみんなに見せる。

そういうやり方を何年間もずっとやっていたのだけれど、プレゼントを買う経費や持って行く手間も大変なので、3年前からプレゼント交換のやり方を変えた。プレゼントをあげる相手はサークル形式にして、全員にではなく事前に決められた夫婦、または個人一件にあげることになった。で、プレゼントを開ける時にこれは誰々からのものと言って開けてみんなに見せる。

一般的なクリスマスのプレゼントは、日本とおおむね同じで、女性にはジュエリー、バッグ、カーディガンとか、男性にはカードケース、ポロシャツ、ゴルフ用品とかだ。11月後半からクリスマスプレゼント用のカタログ雑誌が郵便でどんどん送られてくる。インターネットでも広告がどんどん来る。

米国だなあと思うのは、こんな大きなもの買う人いるのかと思うようなものもあることだ。たとえばゲームセンターに設置されているような大型ゲーム機がカタログで売られている。めちゃくちゃ大きなクマのぬいぐるみもお店で売られている。庭に置いて飾る為の家の高さほどもある巨大なバルーン式のクリスマス飾りとか。

遠方に住んでいる親せきや友人にクリスマスプレゼントを贈る人も多い。クリスマスプレゼント用のギフトパッケージのカタログは日本のお歳暮のカタログと似ていて、ハムや紅茶やクッキーなどの詰め合わせがバスケットに入っていたりする。

ケーキやお菓子の詰め合わせも種類が多くて見ているだけでも楽しくなる。ケーキと言えば、米国には日本のようなクリスマス・デコレーションケーキはない。どうやらあれは日本で昭和の時代にクリスマスを家庭で祝うようになってから日本で考案されたもののようだ。米国ではクリスマスで食べるケーキは、ロールケーキ、フルーツケーキ、あるいはドイツ式のシンプルなシュトーレン等が一般的だ。

私は子供のころ、あの日本の大きな丸いクリスマス・デコレーションケーキが本当に好きだった。一時はデコレーション・アイス・ケーキが流行ってドライアイスで冷やされた発泡スチロールの円筒形の入れ物に入ったそれを父親がクリスマスイブに買ってくるのを楽しみにしていた。日本式のクリスマスもいいものだ。懐かしい。 


2020年2月号

 

日米で逆さまなこと

肥和野佳子

 

蛍の光

つい先日、大晦日に日本語放送で紅白歌合戦を見ていた。例年のように最後に「蛍の光」を歌って2019年にさようならをする。「蛍の光」は2020年を迎える直前だ。しかし米国では大晦日にカウントダウンをして新年が明けてHappy New Year!になってその直後に「蛍の光」のメロディーが流れるのだ。日本人としては新年になった瞬間に「蛍の光」が明るい感じで流れると、かくっとくる。「蛍の光」の原曲はスコットランドの民謡でAuld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)と呼ばれる曲だ。英語で直訳的にはOld long sinceで、”days gone by”(時がたって)のような意味らしい。古くから特に年始、披露宴、誕生日などで歌われる曲だそうだ。

 

住所のつけ方

米国は道路に名前を付けて住所を表示するが、日本は道路以外のところに名前を付けて住所を表示する。日本は地域をたとえばXX町2丁目7番地とかブロックごとに分けて番号をつけて、さらに7番地の中の1号とか2号とか建物に番号をつけて住所が決められている。米国は日本とは逆にブロックには名称はついておらず、道路に名称がついていてその道路に面する建物ごとに番号が付与されている。たとえば、410 Atlantic Avenue Windsor, NY 10305という住所があったとして、その人はNY州のWindsorという市に住んでいて、Atlantic Avenueという通りの410番に住んでいるということになる。10305は郵便番号。米国では驚くことに米国中のほぼすべての道に名前が付けられている。少なくとも道があって建物があればその道に名前がなければ住所を付けられないので道に名前を付けるのだ。日本では大きな通りにしか名前がついていないが、米国ではどんな小さな道にも建物があれば名前がついている。

 

オーブントースター

 日本で扉があくタイプのトースターは「オーブントースター」と呼ばれているが、米国では「トースターオーブン」と呼ばれている。食パンを焼くトースターは昔はポップアップ式のものしかなかったが、70年代に扉を開けてパンを中に入れる小さなオーブン型のものが出てきて、それが一般的になり、80年代には日本ではポップアップ型のトースターは製造中止になったらしい。米国ではポップアップ式のトースターは現在も一定の人気があり普通に売られている。

なぜ、米国では「トースターオーブン」と呼ばれているのかは不明だが、私の想像ではたぶんこうではないかと思う。米国では調理にオーブンを多用するのでどこの家にも大きなオーブンがある。日本から来た新型のトースターは扉を開けて中にパンを入れて焼く。見た目がトーストを焼くためのまさに小さなオーブンだ。トースターと言ったら米国人はポップアップ式のあのトースターしか連想しない。確かにあれはオーブンだ。それで「トースターオーブン」になったのではないかと思う。

 

ドアの開く方向

玄関のドア、部屋のドア、トイレのドアなど、日本では部屋の外側に向かって開くが、米国は逆で部屋の内側に向かって開く。日本の家では玄関で靴を脱ぐ習慣があるので、玄関のドアが内側に開くのでは玄関で邪魔になるので外側にドアを開くスタイルなのだろうと思う。各部屋のドアは廊下に向かって開けるドアだと、ドアを開けっぱなしておくと廊下を歩くときに邪魔になるので閉める。トイレのドアも廊下に向かってドアが開いたままではおかしい。

米国の場合は原則的にドアは部屋の内側に向かって開くタイプだ。トイレのドアは内側に開くのでトイレを使っていない時はドアを開けたままにしておく習慣がある。それでドアが閉まっていれば誰かトイレに入っているということだ。子供部屋のドアも内側に開くので、子供は親にドアはいつも開けたままにして廊下から様子がわかるようにしておくようにとしつけられる。ドアを閉めてもいいのは着替える時、寝る時、何かに集中したい時などだ。会社のオフィスの個室も同じで、廊下から様子がわかるようにドアは基本はいつも開けたままにしておく。ドアが閉まっているということは、今何らかの大事なことをしているから入ってくるなという意味だ。そういうドアの習慣をなにも知らないで米国にホームステイに行った大学生が、ホームステイ先のお母さんに自分の部屋のドアを閉めずにいつも開けておくように言われて困ったとか、ドアの閉まっているトイレのドアを開けたらホームステイ先のお父さんが入っていたとか、失敗談を聞くことがある。

 

バレンタインデー

日本は女性が男性に愛情表現としてチョコレートなどのプレゼントをあげる日だ。米国は逆に男性が女性に愛情表現としてバラの花やプレゼントをあげる日だ。そのことは近年日本でもかなり知られてきて、バレンタインデーにバラの花を女性に贈る男性も出てきているとも聞く。米国のバレンタインデーは恋人同士、夫婦、友達同士でバレンタイン・カードを送りあったりする。恋人や夫婦の場合は赤いバラの花を贈るのが主流だが必ずしもバラでなくてもよい。

米国は見せびらかし文化があって、バレンタインの日はオフィスの雰囲気が落ち着かない。男性がお目当ての女性が働くオフィスに花屋からお花を配達させるからだ。花屋がオフィスに来るたびに「あのお花は誰あてなんだろう?」「えー、Aさん恋人いたの!」「Bさんのハズバンドはいつも素敵な花束くれるんだね、やさしいね。」「えー、Secret admirer(秘密の称賛者)からのお花なんて誰なんだろう?どうしよう、はずかしいわ。」などなど。毎年誰かからお花をもらえる人はいいけど、誰からももらえない女性もけっこういるわけで。見栄っ張りの女性は花屋に自分で自分宛にバレンタインのお花をオフィスに送る人もいるとか。私はこんなプライベートなことをなぜ職場に持ち込むのだろう、お花は自宅に送ればよいではないかと米国人に聞いたら、「オフィスに送られるのが嫌でそうしている人もいる。オフィスにお花を送るのはオフィスにいる時間が長いからというのと、送る側の意図の一つとしてはこの女には俺がいるのだから手を出すなというけん制の意味もあると思う。」と言っていた。

私は日本のバレンタインデーのほうが好きだ。日本では女性が男性にプレゼントする日だなんて女性差別的だという人もいるが、それは違うと思う。選ぶ側のほうが立場が強いのだ。選ばれるのを待つ側は立場が弱くて快適ではない。日本の男性はバレンタインデーで多くの人がこんなに微妙な思いをさせられていたのかと、米国で逆の立場になって初めて気が付いたのだった。


2020年3月号

 

在宅勤務

日本でも近年は徐々に増えてきたようだが、米国では在宅勤務はもう20年前くらいから職務によるが普通にあった。たとえば、パソコンを使って家でできる仕事は子育て中の女性に都合がよいし、営業職で仕事を取ってくるのが中心の人も、わざわざオフィスに行かなくても自宅でパソコンや電話で業務連絡すればいいことだ。会社にとってもオフィスのスペースが減ることでオフィス賃貸料という固定費を削減できる。在宅勤務の実際は会社によっても違うし、職務によっても大きく違うので一般化はできないが、働き方のスタイルの一つとして選択肢が増えるのは良いことだと思う。

 

私は2000年に独立してからは自営業で税務コンサルティングをしている。現在かかわっているクライアントでの実際のところを紹介したい。この会計事務所はニューヨーク市に本社があり、米国のアカウンティング・ファーム業界としては中規模。会計監査、税務、コンサルティング等の業務を行う。私は毎年6月から10月か11月頃までの5か月か6か月続く税務関係のプロジェクト仕事に2012年からこの8年間かかわってきた。ニューヨークに住んでいた頃はこのクライアントのオフィスまで通勤していたが、2015年にフロリダに転居してからは完全にリモートワーク(在宅勤務)になった。

 

私はもともとこの会計事務所にかかわることになる前に、そのプロジェクト仕事の発注先である別の会社でかかわっていたので、その仕事と一緒に私も移ったのだった。それでそのプロジェクトの内容に関しては私が一番古いので、その会計事務所は最初は私からいろいろ学ばなければならなかった。特殊なニッチな内容の仕事なのでできる人がほとんどいない。2015年の5月終わりに私と夫がフロリダに転居するにあたって、その会計事務所と交渉して、自宅でパソコンでリモートワークという形態で仕事をすることになった。その前にもう3年間ニューヨークの事務所でそのプロジェクト仕事は順調にうまくいっていたので、私から手取り足取り教わらなくてもしっかり仕事をできる人が数人育っていた。しかし仕事の量が多いので一人でもいなくなると残った人は大変になる。今どきは会計事務所の多くの仕事はパソコンさえあれば自宅でもできる部分は多い。職務内容に役割分担ができていて、自分の受け持ち部分が完成すればよいという職務的な特色があるからかもしれない。

 

インターネットが普及してからは会社のネットワークシステムの構築で、自宅でパソコンからネットワークにアクセスすれば会社のパソコンと同じように仕事ができる。データは昔は紙ベースのものが多かったが、今はスクリーンでオンライン上で見ることができる。私はフロリダ在住でニューヨークの仕事をしているので100%リモートワークだが、そのクライアントの所ではニューヨーク在住で週に1日だけリモートワークをしている従業員もいる。大雪や豪雨などが予想されるときは事前に会社から「明日はオフィスに来られない人は家でリモートワークをするように」とEメールで連絡が来たりする。

 

ニューヨークの人たちとのコミュニケーションはほとんどがEメールだ。たまに電話で話す。Eメールを書いて説明するのが難しいような内容は電話がいい。会議も私は電話で参加する。私一人のために画像が映る会議にするほどのことでもないので。コンピューターがうまく動く限りは問題ない。ただ、自宅のパソコンがなぜか調子が悪いとか、会社側のサーバーの問題とかがたまに起こって、パソコンが動かなくなることがあるとあせる。そういう時は会社のITのヘルプデスクに連絡して何とかしてもらう。私はパソコンはあまり得意なほうではない。ITの専門の人がオンラインで私のパソコンに入ってきて、いろいろ調べてなんとかなるようにしてくれる。

 

最近、会社が新しいソフトウェアを導入することになり、すべての人がそれを動かせるようにならなければならず、トレーニングがあったがそれもすべてオンライン上で行われた。オンラインの授業みたいな感じでインストラクターがいてその授業をとれる人が参加するライブ形式で、一週間の間に同じのが何回もあって都合のよい時間にやればよかった。しかし私は一人でフロリダにいるので新しいシステムに慣れるのに不安があった。他の人達はニューヨークのオフィスにいるからわからないことが出てきたら周りの人にすぐ聞いて教えてもらえるが、私はそういうわけにはいかない。やはりいくつかわからないところが出てきてITのヘルプデスクの人に助けてもらうこととなった。そういう手取り足取り学ぶことが必要な時はやはりリモートワークでは都合が悪い。

 

日本でもリモートワークは、入力業務、コールセンター、数字分析、資料作成、ユーザーとのやり取りなどの分野でもうずいぶん前から始まっているようだ。一般企業では職務内容によるので難しい分野もあると思う。人間は基本的には群れを作って生きる社会的な存在だと思う。全員がリモートで働けるとは思わないし、単に働き方のスタイルの選択肢の一つだ。選択肢はたくさんあった方が働きやすい。小さい子供がいるとか、介護しなければならない家族がいるとかで退職をしなければならずスキルのある人材が職場を去るのは会社にとっても損失だ。

 

基本的にリモートワークはすでに一定のスキルを持っていて自律的に仕事をこなすことができる人であることが前提だ。それを持っていない人はそれを少なくともどこかで習得する必要がある。私自身はもう自分のキャリアライフには満足していて、ハーフリタイアモードで、今は自転車をあまり漕がなくても前に進める緩い下り坂の感じでやればいいので、リモートワークは私に丁度よかった。夫が病気がちなので家で仕事をしながら夫を見守ることもできる。私の職務契約では時間の使い方は自由なので、夜型の私は主に夜から深夜にかけて仕事をしている。寝るのは午前3時ごろ。朝起きるのは10時か11時ごろ。昼間は仕事は少しだけにして、夫の医者通いに付き合ったり、ジムで体を鍛えたり、趣味のバイオリンの練習をしたり。通勤がないのでそのぶん楽だ。

 

リモートワークを週に一日する程度ならともかく、全面的なリモートワークを選択するのは、出世とかに興味がなく、一定の年収を稼げればそれでよい、仕事よりほかに優先順位が高いものがあるという人に向いていると思う。組織ではやはり中心部にいないと重要な任務からは外れてしまう。会社の中枢部は心臓で、ネットワークは血液、そしてリモートワークの人材は筋肉だ。どれも大事だが、人はそれぞれ自分のライフスタイルに優先順位があるわけで、心臓でポンプの役割を果たしたい人は体の周辺の筋肉になるのは望ましくないと思う。

 

リモートワークになってからはもう通勤することがなくなったので、毎日化粧をする必要がなくなった。化粧品は化粧水、乳液、クリーム等の基礎化粧品以外は減らなくなった。最初の頃は夫の医者通いの際に軽い化粧くらいはしていたのだが、毎日ノーメイクでいるとメイクアップするのが面倒になり、眉毛だけ整えて、口紅もつけずに外出するようになった。普通のレストランに行くときは化粧しないが、さすがに高級レストランに行くときにはきちんとした服装できちんと化粧をしていく。ワンピースを着る機会も少なくなった。毎日Tシャツにヨガパンツだ。毎日スニーカーしか履かないので足の指がまっすぐになって足の爪の調子も良くなった。それはリモートワークの女性がみんなそうなるというわけではなく、私の個性の問題だと思う。

 

リモートワークは小さい子がいたり介護しなければならない家族がいる人に向いているのは確かだが、一定の工夫をしないといけない。たとえば小さい子供がいる場合は子供がまとわりついてきて仕事の邪魔をして集中できない場合がある。家で仕事をしている場合はきちんとルールを作って、集中している時間には邪魔をしないように家族にも協力してもらわなければ大変になる。それと本人が自己管理ができるタイプの人間でないとリモートワークは難しいと思う。すなわちサボりがちの人では務まらない。100%リモートで働く場合は成果給の部分が大きくなるのが普通で、結果を出せなければ報酬は減るだけだ。逆に言えば、オフィスにいるが毎日なにをしているのかよくわからないような「ぶら下がりの人材」がリモートワークになったら詰む。

 

最近、新型コロナウイルスの問題で、リモートワークにして一切会社に出勤させずという状況になっている会社もいくつかあるとニュースで聞いた。中国では大規模な在宅勤務の実験をするよい機会で、新型コロナウイルスの感染拡大により、在宅勤務は「してもよいもの」から「しなければならないもの」に変貌したとツイッターでもつぶやかれていた。日本では大雪、台風、地震、豪雨など自然災害のリスクが結構ある。そういう時は従業員を無理にオフィスに来させなくてもいいように、リモートワークを日ごろから時々やればいいと思う。


2020年4月号

 

減量成功の続報~8か月で12キロやせた~

「倉文協だより」第362(令和元年9月15日号)で、3か月で5キロやせた話を書いた。その原稿を書いたのは8月初めだ。その中で私は「7キロ位減量できたらこの減量プロジェクトは終了して、普通に好きなものを食べようかなと思う。」と書いた。実際には7キロ減量できても止めなかった。調子よく痩せていったので止めるのがもったいなくなって、一体どこまで痩せられるのだろう、9月にかかりつけ医に行くことになっているので、それまで頑張ろうと思った。

 

そもそも昨年5月初めに健康診断としてかかりつけ医に行ったときに私のコレステロール値がずいぶん高くて、これはやばいと思って真剣にジム通いを始めたのだった。その前年はサボってあまり運動しなかったし、夜にお菓子をパクパク食べていたので昨年の4月には60キロ(身長155センチ)になっていた。60キロなんて私の人生の中で最高記録だった。これは許せない。減量するしかない。前の記事でも書いたが、私は減量に成功した経験は過去に何度かあるので、本気でやれば痩せられる自信はあった。それまでの減量経験では7キロまでは痩せたことがあった。

 

それでジムに平均で週に5回通い、食事は一日一回夕食のみで、夕食は普通に食べた。私は超夜型で午前3時に寝て、午前10時か11時位に起きるので、もともと朝食は食べず、朝昼兼用でクロワッサンを一つ食べていたがそれを止めてコーヒー一杯だけにしていた。夜におなかがすいて食べていたお菓子は全く食べなかった。おなかがすいたらプチトマトを4粒くらい食べたり、豆腐を食べたりしていた。お菓子はあればどうしても食べてしまうので買わないに限る。

 

それで9月にかかりつけ医に行ったとき私は10キロ減量(5か月で10キロ減量)できていた。しかしコレステロール値はかなり下がっていたがまだ少し高かった。先生は私が10キロもやせたことを”Good job!”と褒めてくれたが、「運動はもう少し続けられますか?」と言った。私はてっきり先生に「もういいですよ。」と言ってもらえるだろうから、それでこの減量プロジェクトを止められると思っていた。「まだ続けろというのか、えー!」と思った。しかしコレステロール値がまだ高いならしかたない。でも、もうそんなに痩せなくていいのでほどほどにすることにした。

 

減量を始めてから8か月となる12月に私は48キロになっていた。12キロもやせるとズボンがダボダボになった。3年前に買ってきつくて着られなくなっていたワンピースもすんなり着られるようになった。5年前にニューヨークからフロリダに引っ越すときに、もうこんなに痩せることはないだろうからと思い切って捨ててしまった洋服があったが捨てなければよかったなあと思った。夫にもうそれ以上痩せたらだめだよと言われた。3月初めの現在、私は48キロから49キロの間をキープだ。12月頃から今後は筋力をつけることを重視するように方向転換した。

 

日本で筋トレブームのようだが、私も「筋肉女子」を目指すことにした。筋肉をつけるにはたんぱく質の摂取量を増やさないといけないので、以前のようなきつい食事制限はしていない。昼にサンドイッチを食べたり、ヨーグルトを食べたり、コーンフレークを食べたりする。空腹を感じたら枝豆とか、カニカマを食べる。お菓子も解禁したが量は気を付けている。サプリメントは以前からいろいろとっているがアミノ酸のサプリを加えた。

 

今日もジムに行った。いつものようにラジオ体操第一で初めて、ストレッチをいくつかした後、筋トレの器具を三種類やって、それからダンベルだ。3週間前にダンベルをやっているときに右肩を痛めてしまって、今はすっかり回復したが無理しない重さでやった。それから有酸素運動でクロストレーナー(クロスカントリースキーのようなマシン)を30分で200キロカロリーの消費をめどにいつもやっている。日によって有酸素運動はトレッドミルをやったりロウイングマシンをやったりもする。その後、床にマットを敷いて斜腹筋などのエクササイズをして最後はラジオ体操第二で終わる。

 

そのパターンは前回書いた時と大して変わっていないが、レベルアップしていて、筋トレマシンの重量も少しずつ重くなっているし、以前は10回1セットにしていたものを15回1セットにしたり。それで運動時間だけで前は75分だったが今は90分かかるようになった。もちろん時間がないときは短いバージョンにしている。3週間前にダンベルをしているときに右肩を痛めたのは、いつもと同じ重量のダンベルでいつもと同じようにやっていたのだが、振り上げる時のちょっとした角度の違いだろうか、肩甲骨あたりの筋肉がギクッときた。そのあとジムで下半身の運動だけでもやろうかと思ったが、無理はせずすぐ切り上げて家に帰って肩を冷やした。なぜそんなことになったのか思い当たることがあった。その前日に私よりあきらかに年上の女性がえらく重いダンベルを使っていて、「えー、そんな重いの使うの?私ももっと頑張らなきゃなあ。」と思って気負っていたのだ。人間の性格はあまり変わるものではないなあと思った。私は昔から自分を追い詰めすぎてダメになることがある。もっと気楽に余裕をもってやった方がよい。

 

筋肉は結構重いので筋肉がつくと体重はやや増える。しかし体脂肪率は減っているはずだ。うちの体重計では体脂肪率は測れないので自分の体脂肪率はわからなかったが、先週ジムで特別イベントがあって体脂肪率を測ることができた。24%だったので女性としてはやや低めというだけだ。もう少し低いかなと思っていたのでちょっとがっかり。しかし、中年以降に脂肪がつきやすくなるのはある程度人間の自然なのだろうと思う。年を取ると病気をしやすくなる。病気をすると数日間食べられなくなることがある。食べられなくても急速に衰弱しないように脂肪の貯蔵がある程度必要で、神様が人間をそのように作っているのだろうと思う。バランスよく今後も筋肉をつけていこうと思う。

 


2020年5月号

 

新型コロナウイルス~フロリダとNYでは~

この原稿は4月5日現在のことであることをまずおことわりする。日本のニュースでも連日NYでの感染者数と死亡者数の酷さや街の様子が報道されている。実際、米国の中でもNY州がそれもNY市が突出して酷いことになっている。フロリダ州もだんだん感染者や死者数が増加して緊張感が増してきた。

 

そもそも新型コロナウイルスは中国で最初に発生して、それから近隣である日本にも入ってきてクルーズ船の問題も起こり、あの頃は米国では全く対岸の火事だった。それが今では感染者数では米国が世界一に。4月5日現在で米国で感染者数は約31万人、死亡者数は約8300人。一方、日本では感染者数2935人、死亡者数69人。死亡者数をこんなに少なく抑えることに成功しているなんてすごいことだと思う。

 

一か月前の3月4日、元々心臓疾患のある私の夫はまた心臓の冠動脈が詰まって、内視鏡手術でステントをする予定だったが、詰まり方がひどくて普通のステントではだめで手術が完了せず、3月12日に内視鏡手術を再度して一度に二つステントをした。一泊の入院だった。夫はすでに3個ステントしていたので全部で5個になってしまった。私は新型コロナウイルスは米国にも入ってきているので、今後どんどん医療状況は悪くなるから3月4日にさっと終えてほしかったがそれは仕方ない。今となっては3月12日に終えられただけで幸運だった。

 

フロリダ州でも感染者数が多いのは都会のマイアミ市とその周辺だ。私が住んでいるパームビーチ郡もマイアミの北130キロくらいなので近いと言えば近い。しかし沿岸部はよいリゾート地だが内陸部に少し入ると閑静な住宅地域で、いつも車で移動しなければならない田舎といえば田舎なので、それほどのひっ迫感はない。私は日本でトイレットペーパーが買えないというニュースを2月に聞いてから、これは米国でもそうなるだろうと思って、トイレットペーパー、ハンド・サニタイザー、消毒ワイプ、消毒液は早めに買いためておいたのでよかった。トイレットペーパーもハンド・サニタイザーも近くのスーパーの棚はいまだに空っぽのままだ。

 

私たち夫婦はゲイティッド・コミュニティーの中にある一軒に住んでいる。クラブハウスにあるフィットネス・ジムに私は週に5回くらい行っていた。しかしジムは3月15日に閉鎖になってしまった。屋外プールやテニスコートは開いていた。じゃあプールで泳いで有酸素運動しようかと思っていたら、3月21日にそれも閉鎖になった。私はダンベル、フィットネスマット、踏み台昇降の器具をアマゾンで買った。そして家で筋トレとストレッチをして、外でジョギングや速歩で有酸素運動をしている。

 

フロリダはすでに昼間は日差しが強く暑いので、ジョギングや速歩は日没時近くのトライライトの時間帯なら涼しいのでその時間に行っている。家の外に出ると犬の散歩や健康のための散歩をしている人が何人かいて、同じゲイティッド・コミュニティの人たちだから知らなくても「ハーイ!」とあいさつし合ったりする。私はジムに行くときと同じフィットネス用のスポーティーな格好でジョギングや速歩をするので目立つし、めったにいないアジア人なのですぐ顔を覚えられた気がする。州政府から3月21日には10人以上人が集まることを避けるように、そして人と人の距離は6フィート(2メートル弱)とるように言われているので、グループで散歩している人も、人と人との間隔はそのくらいとっている。

 

3月半ば頃から、ファンダメンタル・ビジネス(医療機関、警察、消防、薬局、スーパー等の食料品店、ガソリンスタンドなど)以外は従業員はできるだけ在宅勤務にするようにとされた。夫は引退者で元々ずっと家にいたし、私はフロリダに転居してからはずっと在宅勤務だったので、生活スタイルにたいして大きな変化はない。以前から出かけるといえば、スーパー、薬局、医院、レストランくらいのものだった。しかしレストランは持ち帰りと配達以外は禁止されたので、レストランに行けなくなったのが残念。3月後半からバイオリンの先生が来なくなった。彼女は例年バイオリンの生徒である子供たちから風邪やインフルエンザをもらって時々休むことがあったので、今は当然しばらくの間は自粛だ。

 

学校は元々米国では3月半ばから後半にかけて一週間のスプリングブレイクと呼ばれる短い春休みがあるが、それを前倒しと延長で3週間程度休みになった。今は学校は在宅でオンライン授業のみになっている。夫の娘はうちから車で20分くらいの所に住んでいて高校の生物の教師をしている。オンライン授業もだいぶん慣れたようだ。今学期は早く終了になるそうだ。彼女夫婦は月に3回くらいうちに遊びに来て夕食を共にしていたが、今は家族でも高齢者や既往症の人に接触しないようにということで、彼らはうちに訪問するのを控えていて3月半ばから会っていない。

 

NYはもっと酷い状況になっているので、友達たちはどうしているのだろうと何人かに連絡してみた。夫の姉はマンハッタンに住んでいてコロンビア大学の教員している。大学から突然すべてオンラインで授業をするように言われて準備が大変だったと。そして家から全然出ずにスーパーの買い物も配達をたのんでいるとのこと。

 

58歳の友人は2週間前に電話で話したときはそれほどでもなかったが、今日電話で話したらずいぶん警戒度が高まっていて、2か月分くらいの食料はすでに買い込み、スーパーにはもう当分行かないと。郵便物は家に届いてから一日は触らず、宅配の段ボール箱は三日間触らず、その後、雑菌ワイプで拭いてから開けると言っていた。マスクも自分で布で作ったと。

 

70歳の友人は独身の一人暮らしで国連の近くに住んでいる。彼女はずっと家にいると精神的によくないので近くのスーパーに行って買い物をしていると言っていた。車は持っていない。持病があって点滴治療のために地下鉄かバスに乗って行かなければならない場所にある病院に予約があって数日後に行かなければならないのだが、どうしようか、タクシーでも感染の危険度は変わらないしと言っていた。

 

43歳の友人は2歳の子供がいて、本人も免疫力はあまり高くない体質とかで、親子とも一切外には出ず、スーパーの買い物は配達を頼んでいると言っていた。広いバルコニーがあるのでそこで外気を楽しめるしと。掃除と洗濯の家政婦さんが来られなくなったので、自分でやるのが忙しいとも言っていた。彼女の夫は歯科医で、今は歯科はどこも急患しか診療はしない。患者が少なくて歯科衛生士に給料を払えなくなるので解雇して失業保険でなんとかしのいでもらって、また必要になったら戻ってきてくれるようにとしたそうだ。そういう解雇は米国中でものすごく増えていて、そういえば夫の友人の奥さんも秘書をしていたが、今は皆在宅勤務になって、する仕事があまりなくなり、また必要になったら呼び戻すということで解雇されたそうだ。

 

日本とは違って米国の失業保険では自分から辞職した場合は失業給付金は受けられない。だから解雇という形にして失業保険で給付金をもらうことが今は特に大事なのだ。それもあって解雇が急増している。本来、失業の際の経済的面倒をみるのは社会福祉の役割だ。日本の場合は解雇を困難にすることで企業にその責任を押し付けている。日本は経済成長時はそれでもなんとかなったが、現代の成熟した経済社会でそれではなかなか生産性を上げるのは難しいだろうと思う。

 

4月12日はイースターの祝日だ。夫と私はクリスマスにNYに行かなかったので、イースターにNYの夫の姉の家で例年開かれる親戚たちが集まるパーティーに行くつもりだった。2月初めにそろそろ航空券を買おうかと思っていたが、夫の体調と新型コロナウイルスのこともあり、もう少し様子を見てからと思い、買わなかったがそれで正解だった。義姉から今年はイースターのパーティーは行わず、かわりにオンライン授業でも使っているZOOMというシステムを使って、親戚同士が画面上で交流することにするねと先日Eメールが来た。

 

今NY市に訪問することは、私の夫のようなかなりの心臓疾患がある高齢者にとっては自殺行為だ。NY市では人工呼吸器が不足していて、医療従事者もベッドも感染防護服なども不足していて他州からの応援を頼りにしている。NY在住者で別荘を持っている人たちなどは他州に避難している家庭もある。フロリダ州はNYから避難してくる人が増加していて、高速道路に警察のチェックポイントが10日くらい前からできていて、NY州等の感染が多い州からフロリダ州に入る場合は滞在先で2週間の自主的隔離が要請されている。

 

それにしても、東京のように公共交通網がすごく発達していて、人々がたくさん接近して歩いているような所で死亡者がとても低く抑えられているのは、外国から見れば奇跡的に見える。世界は日本の状況を高く評価していて、そのなぞはなんだろうと興味を持っている。BCGが効いているのではないかという説もある。マスク文化が良いのではないかと研究された。

 

普通のマスクの着用は自らの感染防止にはならないが、無症状感染者が出歩いて人に感染させることを防ぐことに効果があると研究結果がでて、米国のCDC(アメリカ疾病予防管理センター)も普通のマスクの着用をすすめ始めた。ただ、自らの感染予防のために医療用の特別なマスクを購入するのは医療機関でのマスク不足につながるのでそれはしないようにと言われている。

 

米国ではもうすでに既往症のある人が通常通りの診療は受けられない状態にある。私の夫もかかりつけ医、心臓医、胃腸医、整形外科医、皮膚科医などなんだかんだで月に3回くらいなんらかの医院に行っていたが、今は心臓医のところに内視鏡手術後のフォローアップで一回行っただけで、それ以外は全然行っていない。心臓リハビリもする予定だがまだ始まっていない。かかりつけ医の医院には感染者が訪問していそうで怖いので、定期的にする血液検査には血液検査専門のラボに行った。今は本当に病気をすること自体がハイリスク。健康の維持をしっかりせねばと思う。


2020年6月号

 

新型コロナウイルス ~フロリダでの続報~

まず最初にこの原稿は5月4日時点でのことだということをおことわりする。現在公表されている感染者数や死亡者数は表参照。フロリダ州は4月1日から外出禁止令が出ていたが、5月4日から一部の地域を除いて段階的に解除になった。除かれたのはまだ感染状況が十分には減少していないフロリダ南部東海岸の人口が多い地域で、マイアミ地区、ブロワード郡、パームビーチ郡だ。私と夫が住んでいるのはパームビーチ郡なので、まだ解除にはなっていない。

 

今回の解除はフェーズ1(第一段階)ということで、今後様子を見て徐々に解除を進めることが予想される。

第一段階の解除

・学校はオンラインで行う

・高齢者施設への訪問は禁止

・選択的な手術はしてもよい

・レストランは屋内席は25%まで、屋外席なら6フィート(約2m弱)あけるならOK

・映画館や多人数のライブ活動等は禁止

・小売業は屋内は許容数の25%ならOK、屋外なら距離をあけるならOK

・バー、理容美容院は禁止

・ハイリスクの人は家の外で他の人と近い接触をしてはいけない

・すべての人は他の人と公の場では最大限距離をとる

・10人超の集団で社交してはいけない

・社会的距離(約2m弱)がとれない所ではマスク推奨

・スポーツイベントは無観客ならOK

 

米国では学校によって多少異なるが、だいたい5月末頃に学期が終了するので、このまま夏休みに入ることになる。病院では急ぐ必要のない手術は延期になっていたがOKになった(これは解除されていない三つの地域でもOK)。ショッピングモール等の商業施設の多くも客が密にならないように人数制限すれば営業できる。フィットネスジムはまだ禁止だが、プールやテニスなど屋外のスポーツは10人超の密にならないようにすればよい。

 

スポーツイベントが無観客で可能になったことは大きい。プロ野球やプロバスケットボールなどはいろんな州に移動して試合を行うのでまだどうなるのか全然わからない。コンサート、ライブ活動、演劇などの芸術系イベントはまだ禁止のままだ。

 

マスクは推奨ということで、今までのようにマスク着用命令ではなくなった。これはとても心配なところではある。4週間位前に外出の際はマスク着用が義務付けられて、スーパーや薬局に行くときも全員がマスクをしていた。マスクを求めて医療備品の店に人が並んでマスクを買い求めていた。オンラインのアマゾンで購入しようと思っても入荷が遅くて配達できるのは5月半ばとかの表示になっていた。

 

フロリダのビーチは個々のビーチによってルールが異なるが、散歩、ジョギング、水泳、サーフィン、釣り等のファンダメンタル・アクテビティ目的ならよいが、日光浴目的とかでの滞在は禁止のままの所もある。他の州ではこれからがビーチがにぎわう時期に入るので心配だろうが、フロリダ州は逆でこれからは猛暑になるのでオフシーズンになる。猛暑のビーチになんて熱中症になりそうで長くは居られないので、ビーチに関してはフロリダ州ではそんなに心配はなさそうだ。

 

私と夫の日常は先月から大して変わっていない。変わったこといえば、夫が3週間前におそらく坐骨神経痛になって、ずっとひどい痛みが取れず、歩行器がないと歩けないほどになってしまった。2週間前に整形外科医にオンライン診察してもらったが、患者の体にさわることもできず、とりあえず鎮痛剤と抗炎症剤を処方されただけ。こんなに長くひどい痛みが続くのはおかしいので明日またオンライン診察してもらうことになっている。今度はCTやMRI等してもらえるようにお願いしようと思う。

 

私のバイオリンの先生はあれからずっとお休み。先生が来ないから私はバイオリンの練習はサボりまくって、自分の好きな曲をたまに弾くだけ。苦痛な練習曲は一切やらず。自分の好きな曲をやるだけなら楽しいし、ストレスにならないのでいいなあと実感。別にこれから音大に行くわけでもあるまいし、楽しみでやるだけなのだから練習曲はもうなしにしてもらえないかと思った。

 

私はジムに行けなくなってからは、前回書いたように、体操と筋トレを家でやって、夕暮れ時に速歩で散歩するのを続けている。ジムでは有酸素運動で二百キロカロリー消費するにはトレッドミルで歩く場合は60分もかかるので、クロストレーナーを30分やっていた。速歩散歩は最初の頃は30分にしていたが、だんだん長くなって今は50分位歩いている。大股速歩きでそのくらい歩くと脚の筋肉が結構鍛えられて筋トレになるし、有酸素運動としてもとてもよい効果があると実感した。

 

気が付いたのは、ジムのトレッドミルでは歩くのはいくら音楽を聴きながらでも退屈で長くはやっていられないが、散歩なら景色が変わるので新しい発見がいろいろあって全然飽きないのだ。私たちが住んでいるのは6百軒位の規模のゲイティッド・コミュニティで、私は塀で囲まれた敷地内をそれまで隅々まで歩いたことがなかった。いつもは歩くのは家からクラブハウス内にあるジムへの往復くらいで、ほかの外出の際は常に車だったから、同じ敷地内でも全体像がわかっていなかった。ここのうちは庭をこんな風にしているのかとか、いつも出ている車が今日は出てないなあ、ガレージにしまっているのかなとか、いろいろ変化があるので散歩が楽しくなった。

 

スーパーに行くのは通常時は週に一回だったが、今は10日に一回か2週間に一回にしている。米国の郊外生活ではスーパーへは車で行って大量に買って運べるし、冷蔵庫も大きいので週一回というのは普通だ。レストランに行けないので2週間に一回位は前から時々使っていたイタリアンレストランの宅配を頼む。夫の薬を取りに行くために薬局にたまに行く。車のまま受け取れるようにドライブスルーの窓口もあるが、今はドライブスルーのほうが車が数台並んでいて時間がかかるので普通の屋内の窓口に行く。

 

車で20分位の所に住んでいる夫の娘夫婦とは3月半ばから会っていないままだ。今でも家族に会うことは禁止ではないが、夫は心臓疾患のある高齢者でハイリスクなので慎重に対処している。5月28日は彼女の誕生日なので、その頃にはうちの地域も解除になっていて、会えたらいいなと思う。

 

それにしても、日本は人口百万人当たりの死亡者数をとても低く抑えることに成功していて素晴らしいと思う(表参照)。死亡者をできる限り少なくすることこそ大事で、日本がその時持っているリソースで可能な最善の方策を考え、頑張ってくれている行政や医療機関のおかげと思う。悪いことばかり考えていたら良い方向には物事は進まない。これからは世界は新型コロナウイルスとともに生きる社会に移行していくことになる。経済も生活も感染症問題もバランス感覚が大事と思う。


2020年7月号

 

結婚で家事から解放された!

そんなことってあるの?と思うかもしれない。あるんです、米国では。私が米国人の夫と結婚したのは、私が44歳の時。彼が住んでいたマンハッタンのアパートに私が引っ越した。結婚となると妻のほうが家事負担が多くなるんだろうなあとある程度覚悟していたが、全然違った。

 

私も夫も仕事があったので、週に一度4時間、時給20ドル程度で、米国ではクリーニングレディーと呼ばれる家政婦を雇った。お風呂とトイレの掃除をして、部屋をモップで拭き掃除して掃除機をかけてくれる。そしてアパートの地下にあるコインランドリーで洗濯機を三つくらい同時に使って一挙に洗濯をして洗濯物をたたんでくれる。米国では洗濯は週に一回というのは普通だ。洗濯機も乾燥機も大きくて一回でできる容量が大きい。

 

夫は高校生の頃から朝はコーヒーを一杯飲むだけで朝ごはんは食べない人だ。私より早く起きて家を出るので、私は何もせず朝はゆっくり起きていた。私も朝は家で食べず、バナナを一本持参するか、通勤途中でクロワッサンを一つ買ってオフィスの机で食べる程度だった。昼ごはんにお弁当を持っていくことはなかった。夫も私も昼休みにオフィス近くのデリでサンドイッチやパンやサラダなどを買ったりしていた。

 

夕食はほとんど毎日夫が作ってくれる。夫のほうが私より帰宅時間が早かったし、夫は食事を作ることがストレス解消になると言う。私が夕食を作るのは2か月に1回位だった。仕事を終えて家に帰ると夕ご飯が待っていた。食後の皿洗いは私の担当だ。普通は米国の家には食洗機があるのだけど、うちは古いアパートで食洗機がなかった。夫は食事を作りながら鍋などを洗ったりするし、二人分の食器洗いはたいしたことない。

 

買い物は週末に二人で歩いて近くのスーパーマーケットに行った。何を買うかは夫がリーダーで私は助手だ。スーパーの袋が6袋くらいあると徒歩だと重くて大変だが、夫が重いものを持ってくれた。夫は食材にも凝る人で、肉や半調理品をオンラインで購入し、冷凍ボックスの宅配が時々届く。

 

夫のワイシャツはほとんどの場合クリーニング店に出していた。夫はポロシャツにもアイロンをかける人でそれは自分でやる。夫はアイロンが得意で、高校生の頃からお姉さんの大事な服のアイロンがけを頼まれるほど信頼されていた。だから私の分のアイロンがけをしてもらうことあっても私がアイロンすることはない。そもそも私はアイロンが必要な服は基本的に買わないのでめったにないが。

 

そんな感じで私は結婚してから、家事から解放された。掃除も洗濯もしなくていい。うちに帰ったら夕ご飯が待っている。こんな楽な「日本の伝統的な夫」みたいな生活ができるとは!なんてラッキーなんだろう。そういうことをニューヨークで日本人の女友達たちと話していたら「えー、いいなあ、信じられない!うちと全然違う。」(夫は日本人で駐在員)と驚かれたり、「あら、うちもそうよ。夕食毎日ってわけじゃないけど私が作るのも夫が作るのも半々かなあ。同じように稼いでるんだからなんで私が全部しなくちゃいけないのよ、当然じゃん。うちも家政婦雇ってるから掃除洗濯は自分たちではしないよ。」(夫は米国人)という人も。なかには「私は独身だけど忙しいから掃除洗濯に家政婦雇ってる。明日来るから床の上に置いたものをちょっと片付けとかなきゃなあ。」と言う人も。

 

米国で、食事つくりは妻のほうが回数多く作っている夫婦が主流とは思うが、妻が食事をあまり作らないというのはそんなに珍しいことではなさそうだ。夫の同僚は彼がいつも夕食を作るのだけれど、奥さんと彼の味の好みが違っていて、妻・子供用の夕食と自分用の夕食といつも二種類作るそうだ。「うちは夫婦で味の好みが同じでよかったね。」と夫が言う。別の話で、夫の幼ななじみの奥さんもあまり夕食を作らない。彼もあまり作らないので外食や出前の夕食が多いそうだ。彼のお母さんはほとんど夕食を作らない人で子供の頃から出前のイタリアンや中華ばかりだったので違和感ないそうだ。

 

私は家事一般が苦手だ。苦手というか好きでない。一人暮らしの頃はやらざるを得ないので最低限の家事をしていた。毎日の夕食作りは面倒だったが、大学生の頃から外食はせず基本的には自炊をしていた。自分の分だけならご飯とおかず一品だけでもいいわけで、そんなに労力はいらない。人の分まで作るとなると責任があるし、おかず一品というわけにもいかないのでたいへんだ。家族のための食事つくりは作ることそのものよりも毎日毎日献立を考えるのが苦痛だ。

 

うちに帰って夕食が待っているというのは本当に助かる。ただ、帰るといった時間に30分遅れたくらいで夫にえらく怒られるのは閉口した。そりゃ、せっかくの食事が冷えてしまう悔しさはわかる。しかし、あと15分で仕事が終わるからと思っても、何やかやでそれが45分かかることってあるではないか。「面倒くさいなあ、それくらいで機嫌悪くしないでよ。私なら1時間や2時間遅れてもあきらめて先に食べて怒らないのに。」と思った。そして、それはまるで日本の夫が妻に対して愚痴るようなことだなあと思った。

 

私はそんなふうに夕食作りをしなくてすんでいるので、罪滅ぼしに夫の服のボタン付けや穴かがりをやってあげる。私は裁縫も苦手だが最低限のことはできる。うちにミシンはないので手縫いだ。そういう裁縫は米国ではクリーニング店に裁縫専門の人がいて、お金を出せばやってくれるのだが、難しいもの以外は私がやる。

 

それから私は肩や背中や腰のマッサージを夫に時々してあげる。そしてほぼ毎晩夫が寝る前に足のマッサージを15分位してあげる。そうすると夫は気持ちいいのだろう、すぐ眠ってくれる。私は夜型人間なので夫が寝てくれてからの時間が自分の自由時間で、夫がさっと寝てくれると助かる。まるで子供を寝かしつけるみたいだ。夫は私のマッサージがとても気に入ってて”You are good wife, good wife. I love you!” と言ってくれる。

 

ニューヨークからフロリダに2015年の夏に転居してからは、夫は引退生活で働いていないし、私はハーフリタイヤ的に自宅で仕事をしているだけなので、もう掃除と洗濯の家政婦は雇っていない。自分たちでやっている。でも基本的に土足なので床に寝転がるわけではないし床掃除は月に一回するくらいだ。日頃は時々気が付いた時に日本でいうクイックルみたいな使いすての不織布で髪の毛やほこりを取るだけだ。洗濯は夫がやってくれる。週一回程度で色物と白物に分けて洗濯機を二回回す。乾燥機で乾かして洗濯物をたたむのは一緒にやる。

 

夕食は相変わらず夫が毎日作ってくれる。私が夕食を作る回数はニューヨーク時代より多少増えたがそれでもたまに作るだけだ。二人とも起きるのが遅いので朝食は食べない。昼食は各自自由に。夫はもともと小食でヨーグルトだけだったりグラノラ・バー一本だけだったり。サンドイッチを作って私と半分ずつ食べることも。買い物は一緒に車でスーパーに行くのでたくさん買っても重くないので楽になった。

 

夫は私が作る手作り餃子が大好きだ。皮はオリエンタルストアで買う。野菜を刻むのに結構時間がかかるがそんなに大した料理でもないのに絶賛してくれる。あとは日本のS&Bのカレーと、味の素の「ふんわりかに玉」が大好きで時々作ってあげるととても感謝される。こんな私なのに米国で夫と出会って結婚して、ありがたやありがたやである。


2020年8月号

 

米国独立記念日 

7月4日は米国独立記念の祝日だ。今年は土曜日にあたるため、多くの会社では金曜日が振替え休日になって三連休。日本のお盆休みのように、独立記念日の週末には親の家や親せきの家に集まるのが習慣だ。例年この時期は高速道路は混雑し、空港や列車の駅も乗客でいっぱいになる。

 

しかし、今年は新型コロナウイルスの感染問題があり、人々は米国独立記念日の集まりをあまりしなかった。夫と私はニューヨークのマンハッタンに住む義姉の主催でZOOMというアプリを使ったオンライン上の集まりに参加した。全部で13人。いつもクリスマスに集まるメンバーだ。夫はニューヨークのマンハッタン生まれで生粋のニューヨーカーだ。私たちは5年前にフロリダに転居。

 

フロリダからの参加は夫と私、夫の娘夫婦。夫の娘はちょうど友達の家を訪問中で「フロリダは外は猛暑で、水の中にいないと暑くてたまらないわ!」と庭のプールで水につかり、冷たいものを飲みながら話していた。

 

夫の娘は夫の前妻との間の子で現在30才。私は彼女が10歳の時から知っている。子供の頃はニュージャージー州在住の母親と一緒に暮らしていた。二週間に一度、夫は車で彼女の送り迎えをして、マンハッタンのうちのアパートに土曜日に一泊してくれていた。米国では共同親権というものがあるので、離婚後も子供が両親の間を行ったり来たりするのは普通だ。

 

彼女は大学を卒業してから恋人とともにフロリダに転居。法的にはすでに結婚しているのだが結婚式はまだだったので今年11月に結婚式を予定していた。7月にはブライダルシャワーと呼ばれるパーティー(花嫁になる人のために親しい女性たちが集まるもの)も予定していた。しかし、新型コロナの問題で人々が集まるのが難しくなり、一年延期にせざるを得なくなった。ウエディングドレスも買って、結婚式の会場、料理、カメラマン、司会者の手配などもすべて準備していたのに、残念だがしかたない。

 

義姉はコロンビア大学で教員をしていて、オンラインでの授業にはもう慣れたそうだが、夏休みも補講がいくつかあって忙しいそうだ。彼女の息子夫婦もマンハッタンに住んでいて、オフィスはまだ開いてなくて仕事はすべて在宅勤務だそうだ。家からほとんど出ないと言っていた。ニューヨーク市のスタッテンアイランド区に住む義理の弟夫婦も在宅のままだ。義弟はプロの音楽家で新型コロナ騒動で仕事が減って大変そうだ。

 

独立記念日といえばバーベキューをするうちが多い。親戚たちは、うちは今夜はハンバーガーだとか、うちはシシカバブ(トルコ風の串焼き)をするとか言っていた。我が家は例年ホットドッグを食べる。メニューは毎年同じでホットドッグに、煮豆(日本の金時豆の煮ものと似た味)、そしてマカロニサラダだ。

 

ホットドッグと言えば、昔から独立記念日に恒例のホットドッグの大食い競争がニューヨークのコニーアイランドで行われ、それは米国のテレビで全国中継される。いつもはビーチに特設会場が設置されて大勢の観客の前で大食い競争が始まるのだが、今年は新型コロナのことがあるので屋内で無観客開催だった。

 

日本人の須藤美貴さんがここ数年連続で女性部門のチャンピオンだ。今年も優勝で七連覇。それも10分でホットドッグ48個半食べるという大会新記録を達成。すごい。10年くらい前までは日本人の小林尊(たける)さんが男性部門のチャンピオンで、少年のような細身の体でよくあんなに食べられると米国人の度肝を抜き、米国で名が知れ渡った有名人だったが、その後、彼はプロのフードファイター(プロの大食い競争家)に転向した。

 

夜9時から独立記念日恒例のニューヨークの花火をテレビで見た。例年はマンハッタンのイーストリバー側かハドソンリバー側で交代で開催される。イーストリバー側で行われるときは家からとても近かったので何度か見に行ったことがある。ものすごい群衆が集まるので地域一帯は通行止めになる。

 

今年は群衆が一か所にたくさん集まるのを避けるために分散開催で、マンハッタンのイーストリバー、ハドソンリバー、エンパイヤステートビル、タイムズスクエア、コニーアイランドなどで花火が行われた。テレビ番組はそれを連続で続けた。例年になくすごくよかった。エンパイヤステートビルから花火が上がるのは初めて見た。展望台のあたりから打ち上げられていて感慨深かった。

 

花火を見ていると人間にはこういうエンターテインメントが必要なのだなとつくづく思った。新型コロナ問題で自粛自粛で人々のストレスが溜まっていた。勢いよくどんどん上がる華やかな花火を見て、アメリカだなあ、アメリカって底力があるなあと思った。

 

米国国歌のThe Star-Spangled Bannerや、米国の第二の国歌と呼ばれるAmerica the Beautiful を聞いていると、1988年に米国に暮らし始めたころのことを思い出す。すぐ歌えるように覚えた。あれから長い年月がたち、米国に移民した自分も米国の構成員。米国の誕生日おめでとう!


2020年9月号

 

新型コロナウイルス~フロリダでの続報2~ 

まず最初にこの原稿は8月2日時点でのことだということをおことわりする。6月に入ってからフロリダ州では州知事のリーダーシップで感染を調べるPCR検査数がすごく増えた。学校やショッピングセンターの駐車場などに特設の検査施設ができていたり、キャラバン隊がテントを張ってフロリダ州のあちこちを移動して気軽に検査ができるようになった。うちのゲイティッドコミュニティーでも6月中頃にクラブハウスの前にテントを張ったキャラバン隊が来て、住民は事前予約が必要だったが気軽に行けた。私たち夫婦は感染していない自信があったし、鼻のあんな奥まで長い綿棒を突っ込まれてぐりぐりされるような検査は痛いらしいから検査には行かなかった。

 

フロリダ州では6月後半からあれよあれよというまに新規感染者が増加し、一日に3千人とか5千人とかでて、7月半ばには一日に新規感染者が1万人でるようになった。現在は減少し始めていて一日に新規感染者は7千人位だそうだが、それでもずいぶん多いには違いない。

 

マスコミはカリフォルニア州、テキサス州、フロリダ州はニューヨークのような感染地獄になるとか大げさに報道した。しかし感染者の絶対数だけみてそんなふうに報道するのはおかしいと思う。日本在住者はもちろんのこと、米国在住者でもよくわかってない人が多いのだが、米国の中で人口が多い州は1位カリフォルニア州、2位テキサス州、3位フロリダ州なのだ。ちなみに4位はニューヨーク州。そもそも人口が多いのだから感染者数が多く出るのは当然だ。

 

それにフロリダ州知事が何度も言っていたが検査数が5月以前より大きく増えているし、最近の検査は以前の検査よりも感度が高いので、以前は陰性と出ていたものも現在は陽性と出るケースがあるとのこと。たしかに以前はそんなに気軽には検査はできなかったので陽性者がいても把握できてなかっただけという可能性はある。ただ7月に入ってから病院の集中治療室の占拠率はあがっているので感染は以前より広がっているのは確かだ。

 

フロリダ州では4月初めに外出禁止令が出たが、5月半ばにフェーズ1のオープンをした。最初の頃はレストランは屋内の場合は定員の25%までだったが6月からフェーズ1のままだが50%までならOKに緩和された。理容院・美容院、スポーツジム、オフィス、小売店も定員の50%までなら営業OKに。大規模なスポーツイベントは定員の25%までならOK。同じフェーズ1のままだが初期の頃より緩くなった。医院も歯科医院も待合室で人が密にならないように席数を減らして全員マスク着用で普通に予約をとって診察している。7月に感染者が増加しても元には戻さずそのままだ。

 

フロリダ州で感染が拡大したのは他の州でも同じだが、若い層が自粛に疲れて少なからずの人たちが活発に動き始めたからというのが一番大きいように思う。特にバーや個人宅でのパーティーなど大人数が集まって飛沫感染や接触感染が起きたようだ。

 

それから6月中頃の特殊事情として、警察官が黒人の首を押さえつけて窒息死させてしまったことを契機に大きな抗議運動が全米で起こり、黒人たちだけでなく白人たちの若い層も一緒になってデモ行進が全米各地で繰り広げられた。連日マスコミはその報道ばかりになって新型コロナウイルスのことは忘れたかのように報道されない時期があった。あのデモ行進で感染したかどうかはわからないが。

 

夫は7月に入ってから具合が悪くなって、胸のあたりが痛いのだが心臓が痛いのか胃が痛いのかわからなかった。心臓医は3月半ばに冠動脈にステントを二個したばかりだから、心臓ではなく胃だろうということで、胃腸の専門医に行ったら症状からみてこれは心臓ではないかということで、双方の医師が電話で話し合って、心臓のカテーテル検査及び必要ならステントをすることになった。

 

7月21日の朝7時半に地域の大病院であるデルレイ・メディカル・センターへ行った。米国では手術の前日から入院するということはせず、手術当日の早朝に患者は病院に出向く。もう何度もこの病院で心臓カテーテルをやってもらっているので私たちは慣れている。今回は新型コロナウイルスのことがあったのでいつもと手順が違って、4日前に夫は病院の駐車場に設けられたドライブスルーでPCR検査を受けた。長い綿棒を鼻の奥深くまで突っ込まれてぐりぐりされて痛いのだろうと夫は覚悟していたが、なんと綿棒はそんなに奥まで突っ込まずパッ済むタイプのもので簡単に済んで拍子抜け。今は検査も患者に優しい新しいタイプのが出ているのねと思った。そのあと病院で手術の書類手続きや採血を済ませた。手術の当日まで何も連絡は来なかったので陰性だったらしい。

 

夫は手術の日、朝8時過ぎに手術の準備室に入った。通常は私を数分だけ入れてくれるのだが、今回は患者以外は入室厳禁だった。心臓カテーテル手術は9時過ぎから始まったらしい。たぶんステントをすることになるだろうから1時間半か2時間位かかる。手術が終わったら執刀医が待合室にいる家族に説明に来るので私はずっと待っていた。11時になっても先生は出てこない。午後1時になっても出てこない。2時ごろ待合室にずっといる私を見つけた看護師が「X先生と話しましたか?」「いいえ、まだです。」「え?先生もう出ましたよ。手術はステントを二個入れて無事終わって、患者さんは今リカバリールームで寝ています。大丈夫ですよ。」と。手術は11時頃終わっていたらしい。先生は私はもう家に帰ったと思ったのかなあ?

 

手術が終わっても入院の部屋が空いて準備できるまでリカバリールームに留め置かれる。私はずっと待合室で待っていた。そして3時半にようやく夫がタンカに乗せられてリカバリールームから出てきた。夫の顔色は良く安心した。荷物をもって一緒に病室に行こうとしたら、看護師に「あなたはダメ。今は患者しか病室に入れません。」と言われた。新型コロナウイルスに感染した患者はそうだろうけど、そうでない患者の家族は普通に病室に行けるのだと思っていた。それなら事前に教えてくれたらよかったのに。私は一緒に病室に入れるからと思って朝7時半から8時間もずっと待合室で待っていたのにと思った。でもまあ、たしかに今は感染防止を厳しくやるのは良いことだからしかたない。病室に送られる前に夫も私も互いに顔を見られたから、まあいいかと。

 

夫が病室に入って落ち着いてから私は家から夫に電話した。3月にやった冠動脈のステント二個はつぶれたとかではなく無事で、その近くがまた詰まっていたのでさらに二個ステントをしたとのこと。心臓は大丈夫だが今回はカテーテルを入れた足の付け根の動脈の穴を閉じる際に、なかなか出血が止まらず内出血がひどくて右足がとても痛いと夫は言った。入院は一泊だけで翌日私は車で夫を迎えに行き、夫は車椅子で看護師に玄関先まで送ってもらった。

 

フロリダ州で新型コロナの感染がひどい時期だったので、こんな時に手術なんて大丈夫かと心配したが、狭心症の発作が出るのは危険なので手術は優先された。病院の手術の待合室はいつもよりすいていたので緊急性のない手術は延期になっているようだった。あれから12日間たって今、夫の心臓は落ち着いていて、右足がまだ痛くてむくんでいるが徐々に回復しているので良かった。

 

夫は超ハイリスク者なので私たちはずっと自粛を続けている。私が感染したら夫も感染してしまうので私も慎重に行動しなければならない。しかしそんなに怖がって毎日暮らしているわけではない。私たちは55歳以上限定のゲイティッドコミュニティーの塀の中に住んでいるのでもともと隔離されているようなもので安心感がある。家から出るのは車で10日に一回スーパーに行くのと薬局に行くくらいだ。近くに住んでいる夫の娘夫婦にも会わないから本当に若い層と接する機会がとても少ない。感染は三世代同居とかで若い層が親や祖父母にうつしてしまうことがよくないようだ。

 

フロリダ州は小さな半島だと思っている人がいるかもしれないが、実は結構大きくて、日本の本州の4分の3くらいの面積がある。人口は東京都の約2倍だ。マイアミは都会だが日本でいえば地方都市くらい感じだし、そのほかの地域は郊外でかなりの田舎の地域も多い。今は真夏で猛暑なのでビーチに行く人もあまりいない。屋外ではほとんど感染しなさそうだ。人々は冷房の効いた涼しい所で毎日過ごしているので、やはり密室でしゃべったり濃厚接触するのが主要な感染要因らしい。

 

日本語放送で日本のニュースを見ていると東京都で一日の新規感染者が二百人になったとか四百人になったとかで騒いでいるのがフロリダ州からみると不思議な感じがする。フロリダ州では一日の新規感染者が1万人とかあったから四百人なんてなきがごときだ。日本人は未知のものを怖がる遺伝子の人が多いそうだが、今回の新型コロナウイルスの件で本当にそうなのだろうなあと思った。米国はそもそも移民国家だから未知のものをあまり恐れない遺伝子の人が多いのだろうと思う。マスクを拒否したり、自己責任で平気でパーティーをする自由を主張する人たちもいる。高齢者でも孫の卒業式に普通に参列しようとする人もいる。

 

まあ、そうはいっても東京都は人口密度が高くて、公共交通網が発達していて人が街中をたくさん歩いている大都会だから、密のリスクはフロリダ州より高そうだ。しかし事実上自粛ばかりしてはいられない。ハイリスク者や不安に思う人たちは自粛を続けて家から出ず、家族でも若い層を近づけず、買い物は宅配や買い物代行のボランティアを使ったりして工夫するのが大事と思う。若い層で活動したい人はマスクをして2メートルの距離をとり、親や祖父母でもハイリスク者に近寄らないようにすることが大事だ。

 

夫や私のような年齢層でも自粛の連続でストレスは溜まっている。若い層はさぞかし辛かったろうと思う。今までよく我慢してくれてありがたい。若い層を批判するばかりではなく感謝することも忘れてはいけないと思う。


2020年10月号

 

米国の大学入学者選抜に異変あり 

~SAT不要の大学が増加~

 

米国留学を考えたことのある人の間ではよく知られていることだが、米国では日本の大学入試のようなペーパー試験は行われない。特定のその日その時の一発勝負で決まるようなペーパー試験では生徒にかかるストレスが大きく、入学してくる人物を全人的な観点で選抜するのには適さないという考え方によるものだ。

 

一般的に米国の四年制大学の入学者選抜では、入学願書、高校での成績証明書、推薦書、エッセイ、そして標準テストのスコア提出が求められる。場合によっては面接が求められることもある。そしてアドミッションオフィスで書類選考で選抜されて合格者には入学許可書が届く。一人でいくつかの大学に応募し、入学許可書が来た大学の中から大学を選んで行くことになる。

 

標準テストはSAT(Scholastic Assessment Test)またはACT(The American College Testing Program)のスコア提出が求められる。SATのほうがメジャーだ。SATは年に7回実施され、何回か受けてスコアの良いものを提出することができる。SATは内容が歴史的に少しずつ変わってきてはいるが、2016年からのSATでは国語と数学の二教科で4セクションある。4セクションとは①Reading Test ②Writing and Language ③Mathematics no calculator ④Mathematics with calculator。全部マークシート方式。

 

2020年は新型コロナウイルスの影響で試験の開催場所が限られ、SATを通常の年通りに受けられない人も出てくるので公平性の問題もあり、SATやACTといった標準テストの提出を要求しない大学が出てきた。世界でも有名な米国のアイビーリーグと呼ばれる大学(ハーバード、イエール、プリンストン、ペンシルバニア、コロンビア、コーネル、ダートマス、ブラウン)でもプリンストン以外はSATやACTのスコア提出はオプションになって、提出してもしなくてもよくなった。カリフォルニアの州立大学群、すなわちUCバークレイやUCLA等の有名校もカリフォルニア州立大学サンディエゴ校などもSATやACTのスコア提出を要求しなくなった。それが、今年度だけの特別措置なのか今後もそうなのかは決まっていないらしい。

 

ちなみにハーバード大学の説明では、標準テストのスコアは選考にあたって様々な要因の一つにすぎず、高校での学業成績や受賞歴などの実績、コミュニティーへの貢献、就業経験、家族から与えられた援助などをアドミッションオフィスが熟慮して全人的に判断する、SATやACTのスコア提出がなくても不利になるようなことはしない、とのことだ。

 

ペーパー試験による競争的試験選抜に慣れている日本人、韓国人、中国人などのアジア系人からすれば、そんなことで一体どうやってフェアに入学者を選抜できるというのか不思議に思うのも無理はない。アジア系生徒にとっては、得点源であったペーパー試験であるSATやACTのスコア提出が要求されなくなると相対的に不利になるのは避けられないかもしれない。

 

日本でも報道されていたが、数年前にハーバード大学はアジア系を入学選抜で差別的に扱っているとアジア系家庭に集団訴訟をおこされている。アジア系の生徒のほうがSATのスコアが高く、高校の学業成績、受賞歴、課外活動等が優秀でも、白人・黒人・ヒスパニック系の生徒の方が入学許可を出される割合が高いのだ。アジア系の生徒としては自分より成績が優秀でもない白人・黒人・ヒスパニックの生徒が入学許可を受け取っているのに自分が入学を拒否されているのは人種差別だという主張だ。アジア系の生徒やその家族の気持ちを考えるともっともなことだと思うし、その気持ちもよくわかる。

 

しかしながら、私はその主張には賛同していない。国によっても社会によっても大学によっても教育観の違いというものがあるのだから、行きたい大学の教育観を受け入れざるを得ないと思う。そもそも大学の名前という威信信仰的なものをアジア系の入学希望者に感じる。ハーバードの威信が欲しいだけならアジアにハーバードに匹敵するような威信の高い大学を作ればよいと思う。

 

米国の大学は非営利団体ではあるが一つの私企業と考えた方が理解しやすい。私企業がどういう人材を雇うかはその企業のニーズによって異なる。トップ大学出身の人ばかり欲しいわけではなく、様々な役割があって多用な人材を採用する。米国の大学もトップ学力の人ばかり欲しいわけではなく、その大学の理念とかニーズにあった人が欲しいのだ。出願時のエッセイや面接で「あなたの入学を許可したなら、あなたは我が大学に対してどのような貢献ができますか?」と問われたりする。

 

そもそも米国のトップ大学はどういう人材を大学が育てて社会に排出したいかを考えたらわかることと思う。将来、地球上の多様な社会でいろんな所でリーダーシップを発揮するような人材を採りたいのだろう。米国のトップ大学が学業成績優秀で同じようなタイプの人ばかり採っていたら、地球レベルでリーダーシップを発揮するような人材輩出ということがうまくいかなくなると危惧しているのだと思う。

 

それに特に米国の私立大学は日本と違って、大学運営のために政府から資金援助は全く受けていないので(研究者が競争的に受ける研究資金を除く)、大学の経営がたいへんなのだ。政府からそういう資金援助を受けないのは大学の自由を守るためでもある。以前、記事に書いたことがあるが、米国のトップ大学経営の黄金比は、三分の一は授業料は無料とか割引で奨学金も出すからとにかく優秀で将来ノーベル賞を取ってくれそうな人、三分の一は学業成績は一定レベル以上で、授業料の割引が不要できちんと100%払ってくれる人や親が多額の寄付金を出してくれる人、三分の一は学業成績は一定レベル以上で外国の王族や社会的なVIPや有名人の子、卒業生の子などだ。

 

アイビーリーグの大学に親の年収が一定以下なら学費無料で入れる制度があるとはいってもそれには枠がある。学業成績だけで上から順番に採っていたら授業料を払わない学生ばかりになって大学経営が成り立たない。有名人や有力者の子弟を入学させるのも大学にとっていろんな場面でのコネクションは事実上大事だからだ。

 

数年前、ハーバード白熱教室として有名なサンデル教授の特別講演が東大で行われた時のテレビ放映を見た。サンデル教授は「成績はそこそこだが親が寄付金を多額に払ってくれてそのお金があれば30人の極めて優秀な学生を大学に入学させることができる場合、その人に入学許可を出すのは良いか良くないか?」ということを東大生に問うた。それは不公平だからダメだという意見が多かったが、ハーバード的にはOKでよくあることなのだ。その人を一人入れることで、極めて優秀な30人が救われてハーバードに入ることができ、将来的に社会の役に立つ人材を育てることができるのだ。

 

アイビーリーグの大学には極めて優秀な人もいる一方で、なんでこんな人が入れたのだろうという人もいるのも事実で、米国生活者はそういうことは知っていて社会的に認知されているので、それほど経済格差がどうのこうのとは言われてはいない。米国では教育は親が子供に買って与えるものだという共通認識がある感じだ。学校は日本でいえば私塾と思った方がわかりやすい。

 

一人の人間は長い歴史の中で綿々と続くDNAの乗り物に過ぎない。親が自分の子を生き延びるのに有利な状況で育てたいと思うのは動物として自然な行為だ。そもそも人間は工場で生産された製品とは違って、生まれながらに一人一人それぞれ違って当たり前だ。生まれながらにみんなが同じスタートラインに立つなんて無理なのだ。同じ家庭に生まれて育っても兄弟姉妹で社会に出てからの行く末は違う。豊かな家庭出身でも本人がめちゃくちゃ努力しなければ得られないことも社会では少なくない。まずは「あるがまま」の自分自身と自分の環境を受け入れて、それでもって前に進むしかないのだ。


2020年11月号

 

引越し好き

~米国での転居歴~

 

私は引越しが大好きだ。小さいころから親の転勤であちこち転居し、転校回数も多い。小さい頃は転校が多すぎて嫌だったが、中高校生になって落ち着いて数年も同じ所にいると、どこかに変わりたいなあとか思ったこともあった。

 

米国に住み始めたのは1988年だ。3か月くらいの短期の滞在は含めないことにする。まず最初に住んだのはペンシルバニア州のイーストン市。そこに二年間。ラフィエット・カレッジという大学で日本語のティーチングアシスタントをすることで、授業料無料、家賃無料で自由に研究でも勉強でもできるという契約だった。日本で社会学で博士課程を終えても研究者になる道筋が見えず悩んでいた頃で、とにかく昔からの夢だった米国留学を実行した。

 

大学が所有する教員用の住宅が割り当てられた。古い二階建ての家で二世帯が分けて住めるようにデザインされていて、私は二階に住み、一階には老夫婦が住んでいた。70㎡位で家具付きだ。米国でワンベッドルームと呼ばれるタイプで、寝室が一つ、リビングルーム、ダイニングキッチン、広いバスルームがあった。

 

大学では学部レベルの社会学は簡単すぎて面白くなかったので、日本にいた頃とは全く畑違いの会計学を一から勉強した。当時は日本企業が米国にどんどん進出していて会計学ができて日本語ができる人材は米国の監査法人に就職できる可能性があるという評判を知っていた。成績が良くないと採用されないので必死で勉強。そして運よく米国の大手監査法人KPMGから採用通知を頂いた。全く新しい扉が開かれたのだった。

 

1990年9月にKPMGのNY支店に就職のため、NYのマンハッタンのアッパーイーストと呼ばれる地域に転居。新聞の賃貸住宅欄の個人広告で見つけたアパートだった。ステュディオと呼ばれる日本でいうワンルームタイプのアパートだが結構広くて50㎡位で家具付き。地下鉄で4駅で通勤できた。契約は一年。

 

1991年の夏にNY郊外に転居。一軒家の一階部分だった。大家さんはその家の上階に住んでいた。ワンベッドルームタイプで65㎡位で広かった。家具付きではなかったので、日系の引越し業者から中古家具を破格の安値で買った。結構きれいなクイーンサイズのベッドが50ドル、大きなソファーも50ドル、タンスやテーブルなども買った。日本人駐在員が日本帰国の際に残していった家具を引き取って倉庫に入れているものを地元の人に売っているのだ。引っ越し業者だからその中古家具の配達は無料だった。

 

郊外に転居した一番の理由は車をもちたかったからだ。マンハッタンでは駐車場が高くて車を持つことが困難だった。郊外に住めば車は家の前に無料で置ける。それに車をもっていると郊外の製造業の監査の仕事に出してもらえる機会が増える。範囲の広い職務経験を積みたかった。それからNY郊外に住んで通勤電車でマンハッタンに通勤するスタイルを経験したかったのもある。しかし郊外からの通勤は片道90分かかったので私のような残業の多い職務の人には大変でとても疲れたので一年半でマンハッタンに戻った。家具はスーパーに張り紙を出して地元の人に格安価格で売った。

 

1993年1月頃にコロンビア大学のそばのインターナショナルハウスの一部屋に転居。そこは大学生、大学院生、留学生などが住む所だったが、その年なぜか賃貸市場が値下がりして、学生たちが外部に住む人が増えたとかで空室があったので特別に一般人でも入れたのだ。空いていたのは3人用のユニットの一部屋。一人一部屋ずつあってキッチンとバスルームは三人で共用。他の二人はコロンビア大学の女性の大学院生だった。

 

コロンビア大学はマンハッタンの北西部にあり、インターナショナルハウスはその少し北にあった。最も近い地下鉄駅は125ストリート駅だったが、そこはハーレムの駅なのでそこを使うのは避けて、私はコロンビア大学正門前である116ストリート駅を使っていた。現在はハーレム開発が進んで雰囲気がずいぶん違うらしいが、90年代の初め頃はまだ125ストリート駅は怖い感じで階段付近に血痕がついていたり。私はまだ車を所有していてインターナショナルハウスのそばに路上駐車していたが、車の小窓を割られてトランクを開けられるという盗難にあった。半年後にインターナショナルハウスを出た。

 

次は東53ストリートのアパートに転居。これも新聞の賃貸住宅の広告欄で見つけた。私は不動産仲介料を払いたくないのでいつも自分で見つける。家具はまた日系の引越し業者から安く買った。45㎡位のステュディオだ。そこは勤務先にめちゃくちゃ近くて歩いて5分だった。夜の11時まで働いても11時5分には家に戻れたので楽だった。家とオフィスを往復するだけの毎日。行動範囲がやけに狭い。なんだか鎖につながれている犬みたいだなと思った。家から離れた安い駐車場をしばらく借りていたが、監査部から税務部に異動になり、もう車を使うこともないので車は友達に売った。そこに2年間住んだ。

 

次はもうちょっといい所に住みたいと思って、1995年の夏ごろに、わりと高級なアパートに転居。マンハッタンのタイムズスクエアのそばだった。ドアマンもいて大きなジムもあった。アパート管理会社との直接契約で、家賃は結構高くて係員に「あなたの年収では少し足りませんね。」と言われた。それで私が保有している銀行預金や投資信託などの金融資産リストを提出してようやく入居が許可された。米国には賃貸住宅入居時の保証人制度というものはない。

 

そこはワンベッドルームタイプで65㎡位。7階の南向きの部屋だった。毎日タイムズスクエアを横切って歩いて20分位の通勤だった。家具は前に住んでいた人から安く買った。タイムズスクエアのそばというのは実に賑やかだ。大晦日の派手なイベントが終わってからのNY市による真夜中の大規模な清掃は効率よく効果的にできていて翌朝は何事もなかったかのようにきれいになっているのに感心した。

 

そこは気に入っていたのだが米国のH-1ビザという最長6年間の就労ビザが切れてしまい米国にいられなくなった。会社がスポンサーしてくれている米国永住権はプロセスに時間がかかってまだ取得できていなかった。それで1997年春から東京に3年間戻っていた。東京でも3か所違う所に住んだのだが、そのことは飛ばす。

 

米国永住権が取得できて2000年春にNYに戻った。NY以外の所に住んでみたいなあと思ってワシントンDCとかハワイとかも考慮したがいまひとつピンと来ず、なんとなくNYが戻って来い戻って来いと言っているように感じたのでそうした。KPMGとは関係を保ちながら私は独立して仕事を始めた。

 

最初の一年はNY市クイーンズ区のフォーレストヒルズという住宅地に住んだ。早く決めなければならなかったので初めて不動産屋を使った。地下鉄で通勤可能で片道30分位。友達が住んでいたことのある地域で、緑もあって感じがよく以前から住んでみたいなと思っていた。鉄筋三階建ての1階部分で二階三階には大家さんが住んでいた。またすぐ引っ越すだろうから、家具はレンタルを利用した。

 

その頃に流行り始めのインターネットのデイティングサイトで現在の夫と出会った。これは私の人生の中で最高の出来事だった。このような幸運にありつけるとは。まさにインターネットは恋愛革命だ。NYが戻って来い戻って来いと言っているように感じて吸い込まれるようにNYに戻ったのは、このためだったかと思った。

 

夫はマンハッタンの2ベッドルームのアパートに住んでいて90㎡位。付き合い始めて一年後の2001年初夏に私はその家に引越して同居。2002年の秋に結婚。その後2015年にフロリダに転居するまでずっとそこに住んだ。14年間も同じ家に住み続けるなんて私の人生で初めてのことだった。

 

私が転居が好きなのは、たぶん好奇心が強くて変化を楽しむ性格(遺伝子)だからだと思う。1999放映のNHKスペシャルで遺伝子をテーマにしたシリーズ番組をやっていて、「驚異の小宇宙、人体三の5、秘められたパワーを発揮せよ」の中で新奇探索傾向の遺伝子が紹介されていた。引越しを好み、それまでとは全く違う別の仕事に着いたり、スカイダイビングを楽しんだりする。それを見て「あ、これは私だ!」と思った。脳内神経伝達物質と大きく関わっていると。日本人には少ないそうで、逆に日本人は「不安傾向」の遺伝子の人が多いそうだ。なるほどなあと思った。


2020年12月号

 

米国大統領選挙、バイデン勝利!

 

今日11月7日土曜日、米国東部時間で午前11時半ごろ、バイデンがペンシルバニア州で当確になり、選挙人獲得数が270を超え、勝利が確定した。うれしい。ほっとした。私と同じように感じた人は米国で過半数を超えている。

 

テレビの報道番組ではずっと全米各地の様子を映す。バイデン勝利を喜び、祝う人が街に繰り出し、ワシントンDC、ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴ、サンフランシスコなど大都市の一角に人が集まってにぎわっている。密になっているが、さすがにバイデン支持派だからみんなマスクをしている。ニューヨークのタイムズスクエアが映る。涙を流している人もいる。人がたくさん集まっていてぎっしりだ。新型コロナウイルスのことでブロードウェイ・ミュージカルも長期休演でずっとひっそりしていたタイムズスクエアがこんなに人でいっぱいなのは3月初旬以来初めてだ。

 

今回ペンシルバニア州のフィラデルフィアという民主党支持者が多い地域の票が決め手になってバイデンの勝利が決まったのは実に象徴的出来事と思う。フィラデルフィアは何といっても1776年に米国が独立宣言を創案し採択されたアメリカ合衆国の聖地だ。フィラデルフィアには独立記念館や自由の鐘などの米国のシンボルがある。

 

ここ数日間の動きを振り返ってみる。11月3日、ツイッターでの私のつぶやきはこうだった。

「夜中の12時が過ぎてついに11月3日火曜日が来た。さあさあ、どうなるんだろうね?バイデン勝つだろうとは思うが、トランプにごねられたくないね。」

「投票が終わって、CNNが田舎の州の第一弾の出口調査結果を出している。田舎の州だから共和党が多くトランプ優勢。田舎の州はそうだとわかっているけど気分良くないね。」

「フロリダ州あかん可能性高そう。がっかりやなあ。」

「げー、ペンシルバニア州もあかんっぽいなあ。やはり隠れトランプ多いんだなあ。」

「テキサス州は選挙人の数が38、ペンシルバニア州は20だしなあ、これらがトランプに行くとあっさり逆転されるね。」

「バイデンいいとこまで行ったけどトランプがやはりテキサス州の38人の選挙人を獲得したか。逆転されそうだなあ。」

「また、まさかまさかのトランプかなあ?隠れトランプってこんなに多かったのか!世論調査が当たらないなんて普通はそんなに起こらないんだが、トランプにはどうも通用しないと、4年前に予備選の時からネイト・シルバー(社会調査の専門家)が言っていたが、今回もだなあ。」

「トランプがスピーチを始めた。でも勝利宣言ではなく、勝ちつつあるという内容。」

「今、米国東部時間で夜中の2時半。四年前は今頃トランプが勝利スピーチだったと思う。でもまさか自分が勝つと思っていなかったのか、勝利スピーチを用意していなかったみたいで、即席に誰かが作ったかなり平凡な内容の短い勝利スピーチだったよ、四年前。」

「夜中の3時半。接戦でまだ決まっていない州は郵便投票分に時間がかかっているようで、どんなに早くても明日中に決まるかどうか?本当にこんなに接戦とはなあ?」

私はここでベッドに入り、翌朝起きたらトランプが勝利していることを半分くらい覚悟していた。

 

11月4日午前11時位に起きると、まだ勝敗は決まっていなかった。郵便投票分の開票が遅れているようだ。郵便投票は州によって事前集計をする州としない州がある。フロリダ州は事前集計をする州なので当日のうちに結果が判明。しかし、投票日まで封を開けない州は郵便投票分の開票作業に時間がかかっている。郵便投票分が開票されるにつれてバイデンが接戦州でどんどん追い上げてきた。新型コロナウイルスのことがあるので投票所に行かずに郵便投票を選択した人はバイデン支持が多い。逆に新型コロナウイルス感染を気にしないトランプ支持者は投票所に行く人が多いので、当日開票ではトランプに票が偏りがちだったが、郵便投票ではバイデンに票が偏っているのだ。

 

11月5日、初日はトランプが優勢だったミシガン州、ウィスコンシン州はバイデンが逆転した。オハイオ州はトランプがとったが、アリゾナ州やネバダ州はバイデンが優勢に。ノースカロライナ州もバイデンが追い上げている。ペンシルバニア州はまだ差があってトランプが優勢だが都市部の郵便投票の開票がまだで、そこは民主党が強い地域なので追い上げて勝つ可能性があるそうだ。まだ勝負がつかない。

 

11月6日、CNNはアリゾナ州のバイデン当確を出さず、選挙人獲得数はバイデン253、トランプ213のままだ。アリゾナ州(選挙人の数11)をバイデン当確とすると、あとネバダ州(選挙人の数6)獲得でバイデンが選挙人獲得数270に達する。もう少しでバイデン勝利に。ジョージア州とペンシルバニア州がどんどん追い上げて並んだ。明日も決着つかないのかなあ?

 

11月7日土曜日の午前11時ごろ起きて、テレビをつける前に夫の処方箋薬を買いに薬局へ。昼過ぎに家に戻ってテレビをつけるとなんとバイデン勝利確定と出ているではないか!「え、本当?バイデンが勝ったの?ペンシルバニア州(選挙人の数20)で勝利確定。すごい、やったね!」私は喜びほっとした。なかなか決まらず、ずるずるになるのではと危惧していたから。トランプは郵便投票に不正があるとして裁判に訴えると主張し敗北宣言はしていないので、そういう意味ではまだ終わってはいないのだが、米国の雰囲気としてはもうバイデンで決まりだ。

 

トランプはもともと共和党の政治家ではなく不動産経営のビジネスマンで、共和党から大統領選に出て四年前に勝ってしまっただけだ。共和党の重鎮たちはこの四年間トランプに共和党をかき回されて快く思っていない。いままでは大統領だったから共和党の議席を伸ばすことが大事なので、大っぴらにトランプ批判を共和党内部からは言えなかったが、これからトランプは見放される可能性が高い。共和党の重鎮たちは今回トランプが負けてくれてよかったと思っている人が多かろう。これで元の共和党に戻れる。

 

バイデンは当確直後の声明でこう言っていた。「かつてない困難に直面しながら、記録的な数の有権者が投票し、米国における民主主義の鼓動が再び深く打ち始めた。選挙は終わり、今こそ怒りや激しい言葉は忘れ、一つの国民としてまとまる時だ。米国民が団結する時だ。そして傷をいやす時だ。私たちはアメリカ合衆国だ。もし私たちが一緒になればできないことは何もないのだから。」

 

人種差別や暴動、社会の分断を生み出したトランプ政治の終焉。暗黒の四年間が終わってようやくトンネルを抜けて明るい日差しにあたったような感じがする。ほんとうにバイデン勝利で良かった。


2021年1月号

 

新型コロナウイルスで明け暮れた2020年

新型コロナウイルスのことが最初に日本で大きな問題になったのは1月20日に横浜港を出港した大型客船ダイヤモンドプリンセス号だった。2月3日に横浜港に戻って接岸し、日本の感染症対応がどうのこうのと連日報道され、SNSでの批判も流れて、あんなふうにネットで発信したら世界から訴訟を起こされてたいへんなことになるかもと思われた。大型客船での大規模感染の例として将来医学書にも掲載されるだろうとか、あの頃はまだ地域限定の感染症問題という認識だった。SARSの時のように主にアジアの特定の地域でだけの問題で対岸の火事を見るような感じだった。

それがその後まもなくイタリアのロンバルディア州で感染爆発が起こり、イタリア政府はロンバルディア州を3月8日に封鎖したがイタリア全体に感染が広がり、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、スペイン、北欧諸国など欧州全体でもどんどん感染が広がった。

米国では最初に西海岸のワシントン州で感染者が出た。その後、3月初めにニューヨークのマンハッタンへの通勤圏である郊外の住宅地で感染者が初めて見つかり、その後すぐニューヨーク市で感染爆発が起こった。車社会の米国で、ニューヨーク市は極めて特殊で、公共交通機関が発達していて、車を持たなくても通勤通学が可能で便利に暮らせるほとんど唯一の地域だ。マンハッタンは東京と似ていて、人が普通にたくさん歩いている人口密度の高い大都会だ。

ニューヨーク市で特に経済弱者が多く住む地域では親子三世代が同居している家庭も多く、感染の広がりはあっという間だった。病院で人工呼吸器につながれた重症患者の様子、疲労しきった医療関係者、死亡者を収容しきれない冷凍トラックなどが連日報道された。ニューヨーク勤務の人たちはエッセンシャルワーカーと呼ばれる、家ではできない仕事の人以外はできる限りリモートワークになった。学校もリモートで遠隔教育になった。

4月5日現在で米国の感染者数は約31万人、死亡者8300人、日本は感染者数2935人、死亡者数69人。人口は、米国は約3億人、日本は1億2千万人。人口比でみると日本はとても低い数字に抑えることに成功していた。日本は人口密度が高く公共交通網を使う場合が多い国なので、日本も欧州や米国のように死亡者が大量に出るだろうという人もいたが、日本はそうはならなかった。世界は日本の成功に注目し、日本を参考にマスクをすることを重要視し始めた。

日本政府は2月27日には全国すべて小中高校が臨時休校要請を出し、対応が早かった。3月24日には東京五輪の延期決定。4月7日7都府県に緊急事態宣言が出され、4月16日緊急事態宣言を全国に拡大、13都道府県は「特定警戒都道府県」に。そして感染が減少し、5月14日39県で非常事態宣言解除。5月25日全国で緊急事態宣言解除。7月にはGOTOトラベルのキャンペーンも始まって経済活性化がはかられた。

一方、欧州や米国では夏に感染が減って、自粛の解除も段階的に進み、自粛にあきあきした人々がパーティーをしたり、バーにたむろしたりで、秋に入ってまたどんどん感染が増加した。米国では黒人差別問題で米国各地で抗議活動が勃発し、暴動も一部起こり、デモ行進などで人が密になることも多かった。

米国で2020年は大統領選挙の年だった。トランプ支持派はマスクもせず出歩く人が多く、マスクをしない自由も訴えられた。10月2日トランプ大統領が感染し、ホワイトハウスでクラスターも発生し、大統領選はどうなることやらという事態が起きた。11月初旬にようやくバイデン氏が次期大統領に確定し、多くの米国人は安どした。

米国では冬に入って各地で感染が拡大し始めた。初期の頃はとても感染が少なかった田舎の州でも感染が始まって病院の対応が難しい地域もあるようだ。ニューヨーク市はまだリモートワークを続けている人が主流で、飲食店も規制が厳しく経営は大変そうだ。ミュージカルは2021年の春まで行われない。演劇や音楽やダンスなどのエンターテインメント系のビジネスは極めて困難な経営状態に。恒例のロックフェラーセンターでのクリスマスツリーの点灯式は無観客で行われた。あの活気のあるマンハッタンはどこかに行ったままで寂しい限りだ。

フロリダ州は真夏の猛暑が去って、冬は暖かくてちょうどよい気候で、例年なら観光客が増えるハイシーズンだ。他州から冬をフロリダの別荘で過ごす「スノウバード」と呼ばれる人たちが10月頃から徐々に増えるのだが、今年は12月に入ってからようやく他州のナンバープレートの車を時々見かけるようになった。フロリダ州では夏は少ない時で新規感染者数が一日千人台に減っていたが、最近は、感染者数は多くて新規感染者が一日に8千人も出るのでフロリダ州に来てもいいのか悪いのかわからない。

フロリダ州(人口約2150万人)は、たしかに感染者数は多いが、人口が米国の中で3番目に多い州なので、人口比でみるとそれ程でもない。まあ大丈夫だけど、私の夫は心臓疾患があって超ハイリスクなので私たちはずっと自粛を続けていて、スーパー、薬局、医者、ガソリンスタンドくらいしか外出しない。月に一回くらいはレストランに行くが。すべて車移動だし。ジムは閉まったままなので私は速歩散歩をして家で筋トレをしている。

日本でも冬になって新型コロナの感染が増加して毎日ニュースで報道されているようだ。日本では米国と比べると感染者数はとても少ないのに医療がひっ迫しているというのは、 おそらくどこか問題があって制度的な工夫が必要なのかもしれない。それにしても日本の人々は日常的に出歩いていて結構普通に暮らしているようで、うらやましい限りだ。

フロリダの私たちは、近くに住む夫の娘夫婦にも感謝祭の日にも会わなかった。クリスマスにも会わない予定だ。新型コロナの問題がない頃は、彼らは10日に一回くらいうちに来てみんなで夕食を共にしていたのに。ほんとうに寂し限りだ。2021年はバイデンが大統領になることだし、ワクチンも出るし、はやく元通りの暮らしに戻りたいものだ。


2021年2月号

 

クリスマス、そして2021新年が明けた

クリスマスが終わって一月に入っても我が家ではまだクリスマスツリーが飾ってある。ほかのクリスマス飾りも出したままだ。それは米国ではごく普通のこと。家庭によるが、ツリーを片付けるのはだいたい一月六日頃だ。キリスト教で一月六日は三人の賢者が生まれたばかりのキリストを見に来る日と言われている。ただ、クリスマスツリーと家の中に飾った様々なクリスマス飾りを片付けるのは結構時間がかかって大変なので、実際にはその日に近い週末にやる家庭が多い。

今まで毎年クリスマスツリーは生の木を買っていた。ニューヨークに住んでいた頃は道端のクリスマスツリー特設売り場に並んでいるいろんな生木の中から気に入ったのを選んで、家に夫が持ち運んでくれていた。フロリダに来てからはオンライン注文で宅配される生木を買っていた。しかし今回のクリスマスでは人工木のツリーを買った。

 

生木は生きているから水の吸い込みをよくするために、最初に木の根元を8センチ位のこぎりで切らねばならない。道端で買う場合はお店の人が電動のこぎりでさっと切ってくれるが、オンライン注文で来る生木は自分でのこぎりをひかなければならない。夫は心臓疾患があってすっかり体力が落ちてしまって力仕事ができなくなり、ここ三年は私がやった。あれを普通のこぎりで切るのは結構汗をかいて大変なのだ。ツリーをスタンドに設置するのも重い木を支えて夫婦で協力しての力仕事だ。去年はやっとだった。クリスマスが終わってツリーを捨てる時に木を外に運び出すのも私一人では重くて困難で、娘の夫に来てもらった。

今回、人工木のツリーはオンラインで購入し宅配された。大きさは6フィート(約183センチ)で、いつも生木で買うサイズと同じだ。しかし軽いので私一人で簡単に組み立てて設置できた。人工木とはいえ結構よくできていて生木っぽいリアルさがあるし、生の木ではないので水やりをしなくていいし、ぱらぱらと葉っぱも落ちないので掃除が不要で、扱いがずいぶん楽だ。もっと早くから人工木にすればよかったと思った。しかし生の木のような良い香りはしない。それでクリスマスツリーに使われるもみの木の香りがするキャンドルを買って毎晩つけて香りを楽しんだ。

クリスマスは、今回は自宅で夫と二人だけだった。新型コロナのことがあるので近くに住む夫の娘夫婦もよばなかった。ちょっとさびしいクリスマスだったが、例年のように夫がクリスマスディナーに作ってくれるロブスターとシャトウブリアン(上等なビーフステーキ)はすごくおいしかった。ニューヨークの親戚たちとはZOOMで、オンライン上で集まって45分位会話を楽しんだ。

日本でも12月は忘年会シーズンだが、米国でも12月は大きなパーティーシーズンだ。例年なら会社のクリスマスパーティーがホテルの宴会場などで華やかに行われるのだが、今回はどこの会社もそういうのは無しで、地味な12月だった。繁華街のデパートやショッピングモールも一年の最大の稼ぎ時なのに、客があまり来ず売り上げはひどかったはずだ。一方でオンラインショッピングは隆盛を極め、アマゾンは記録的売り上げ。我が家も実店舗には全然行かず、11月後半から一か月くらいの間にクリスマスの準備で、オンラインでいろいろと物を買った。

ニューヨーク恒例のロックフェラーセンターの巨大なクリスマスツリーの点灯式も無観客で行われたし、大晦日のタイムズスクエアでのカウントダウンのイベントも基本は無観客で、慰労の意味で何人かの医療関係者たちが招待された程度だった。こんな地味なニューヨークの12月は初めてだと皆が口々に言う。

この年末は、米国では長いクリスマス休暇を取る人が多かった。なぜなら2020年はあまりバケーションに行かなかったので有給休暇を消化するために休む人が多く出た。翌年に繰り越せる日数は限られているので、年末までに消化しなくては消えてしまう分があるからだ。

米国には日本のようにお正月を祝う習慣はない。クリスマスが終わったらもう普通の日で、大晦日に友人たちと集まってパーティーをするくらいだ。そしてお正月の三が日というものはなく、一月二日から普通の出勤日だ。しかし2021年はたまたま一月一日が金曜日で二日と三日が土日だ。だから米国でも1月4日から出勤日に。こんなことは珍しい。三が日があるみたいだ。クリスマス前の12月21日月曜から有給休暇消化で休んでいた人は事実上12月19日土曜日から1月3日日曜日まで連続16日間の休暇となった。

米国ではクリスマスが過ぎて年末近くになると、まだ年が明けてなくても「Happy New Year!」とあいさつする。その場合は「良いお年を」という意味だ。そして実際に年が明けてから言う「Happy New Year!」は「新年明けましておめでとう」の意味だ。

そういえば、いまだに日本で「A Happy New Year!」と「A」を付けている人をたまに見かけるが、あれは昭和の英語教育の間違いだ。何年か前にもそのことについて書いたことがあるが、「Have a good night!」の省略形が「Good night!」なのと同じで、「Have a Happy New Year!」の省略形は「Happy New Year!」だ。文章の中で言う場合は「a」が付くが、あいさつ言葉の場合は「a」を付けたらおかしい。きっと大昔に英語教育の大御所がクリスマスカードに「Merry Christmas and a Happy New Year!」と書いてあるのを見て、新年おめでとうございますだけを言うなら「A Happy New Year!」だと勘違いして、間違ったまま弟子たちに広めてしまったのではないかと思う。

私も遠い昔、中学の時に「A Happy New Year!」と習った。英語の先生自身もなぜ「A」がいるのかよくわからないままそう教えているようだった。日本で15年位前からどうやらそれは間違いだというのが徐々に広まってきたようだが、在米経験のある日本人でさえもいまだに「A」を付ける人がたまにいるのは、三つ子の魂百までみたいに、昭和の誤英語の魂百までという感じがする。

2021年になった。今年は延期になった東京オリンピックの年だ。五輪目指して小さい頃から必死で長年努力してきたアスリートたちの気持ちを考えると、簡単に開催中止を口にするのは良くないと思う。最悪で無観客でもいいのだし、来られる国、来られる選手たちだけでもいいのだ。もともと五輪はそういうものだ。1980年のモスクワ五輪では日本を含め多くの西側諸国は政治的理由で五輪に参加しなかった。

米国では新型コロナのワクチン接種がどんどん進められている。現在はまだ感染者が多いがワクチンの効果が出てくればわりと早く新型コロナは収まるかもしれない。ぜひそうあってほしい。


2021年3月号

 

NYの高級ホテル~二か月住んだ体験談~

先日、日本のニュースで、東京の帝国ホテルが月額36万円で31平方メートルの部屋を貸すというホテルサービス・アパートメントを始めたと聞いた。駐車場無料、フィットネスセンター、プール、サウナ無料、ロビーラウンジでのコーヒー・紅茶無料、3日ごとの室内清掃。今のところ3月15日から7月15日の期間限定で行うそうだ。

この話を聞いて私は自分の体験を思い出した。もう21年前になるがNYのマンハッタンで2000年に次の引っ越し先を決める時にタイミング的に4月と5月の2か月空いたので、家具付きの短期滞在のレンタルアパートをさがしていた。そしてNYタイムズの不動産欄の個人広告にEssex House(エセックスハウス) 家具付き、一か月3千ドルというのを見つけた。

NYの高級ホテルは部屋の何割かをコンドミニアムにしている場合がよくある。ホテルのその部屋のオーナーが賃貸に出していたのだ。当時私は独身。月額家賃1500ドル位の所を探していて、3千ドルも払う予定ではなかったが、見学したらとてもよかった。高級ホテルに二か月住むなんて一生に一度あるかないかだ。その贅沢を、今、しようと思って思い切って二か月間の契約をしたのだった。もう21年前の話だから月額3千ドルだったが、現在ならたぶん月額5千ドル位かもしれない。

Essex Houseはセントラルパーク・サウスという通りにあって、目の前がセントラルパークという最高のロケーションにある。1931年に建設されたアールデコ調の44階建ての歴史的建造物。426室に加えてスイートルームが101、そしてコンドミニアム・レジデンスが147ある。2000年当時は一階の奥の方にミシュラン三ツ星の最高級のフランス料理レストラン、アラン・デュカスがあった。

経営がいろいろ変わって、60年代70年代にはマリオットが経営していた。バブル時代の1984年には日本航空が買ってEssex House Hotel Nikko New Yorkになっていた時代がある。日本航空は1999年にWestinに売却。その後2006年にドバイ系のJumeirah Eseex Houseになって、2012年に再度マリオットの経営に。

私が2か月住んでいたのは2000年だから、その時はWestin Essex Houseだった。部屋は5階で45平方メートル位。クイーンサイズのベッドが一つ、テレビ、ソファーとテーブル、デスクと椅子、ウォークイン・クロゼットがあった。キッチンはないタイプの部屋だったが冷蔵庫と電子レンジがあった。シーツなどリネン類のサービスは週一回、タオルや石鹸などは一週間分置かれていた。電話はホテルの電話で、インターネットは、当時は電話線接続だった。

私はマンハッタン内にあるトランクルーム(一般人向け倉庫)をレンタルしてほとんどの私物をそこに置いて、パソコン、必要な書類、貴重品、二か月分の衣服だけ持ってEssex Houseに2か月住む生活を始めた。初日にはテーブルにきれいな花のアレンジメントが置かれていた。この部屋のオーナーからのプレゼントだった。さすが気がきいている。カーテン、ソファー、ベッドカバーが同じ柄で統一されていて華やかさがある。部屋のインテリアはオーナーの自由なのでホテルの普通の部屋とは内装も家具も異なる。

コンドミニアムになっている部屋の多くはキッチネットと呼ばれる小さいキッチンがついている部屋が主流だが、この部屋にはなかったので料理は困難。自炊は電子レンジで何とかなるものだけになる。私は最寄りのスーパーに行ってデリで食べ物を買ったりした。洗濯はホテルの有料のランドリーサービスを使うまでもないので、下着などは洗面所で手洗いをしていた。まとまった洗濯物がある時は近くのコインランドリーに行けばよかった。

2000年は私が独立して税務の個人事務所を開設する年で、まだあまりクライアントがいなくて忙しくなかった。それで私はホテルにあるフィットネスジムにできるだけ毎日通うことにした。ジムは家賃に含まれていたのでできるだけ頻繁に行ったほうが得だし、減量もするぞと思った。キッチンのない部屋だし、サラダ、豆腐、シリアルなどを中心に食べてダイエットもやりやすかった。ちなみにこの二か月で5キロの減量に成功した。

ホテルのジムは小さめだったが、一通りの器具は設置されていた。ロッカールームがすごく優雅で良かった。良い香りがして半個室のようなブースがいくつかあってゆったりと化粧したりできる雰囲気。ドライサウナとスチームサウナがあって、私は特にスチームサウナが気に入った。ジムの出入り口近くにいつもリンゴ、オレンジ、バナナなどの果物がおいてあって自由に持ち帰ることができた。ジムばかりだと変化がないので、有酸素運動の部分は日替わりでセントラルパークをジョギングすることにした。

なにしろホテルはセントラルパークの真ん前だ。プラザホテルのある角まで行ってそこからセントラルパークに入ってずっと北に歩いてセントラルパーク動物園の横を通り、さらに北に歩いてメトロポリタンミュージアムの横を通り、貯水池の周りにあるジョギングコースに行った。その貯水池はジャクリーン・ケネディ・オナシス貯水池という名称で、ジャクリーンが巨額の寄付をしてその名称になったそうだ。

セントラルパークの道路はどこでも走れるが多くはアスファルトだ。貯水池のまわりは土になっていてジョギングに向いている。貯水池一周は2.5キロだ。私は子供のころから陸上競技が得意で特に短距離走が速かった。長距離走は得意ではない。長い間運動していなかったので最初の頃は1周でやっとだったが、そのうち2周普通にジョギングできるようになった。

あるとき二周走って、いったいどこまで走れるかなと思って続けて3周目に入った。なんとか走れたので、じゃあもう一周と4週目に入った。4週走ったら10キロだ。4週目の後半になってひざに痛みを感じた。しかしここでやめたくない、10キロなんて走ったことがなかったので走りとおしたかった。そしてなんとか4周できた。えー、この年になって記録を伸ばしたなんて、人間の体って鍛えればなんとかなるものだなと自分を誇らしく思った。しかし、翌朝起きたら膝の痛みがひどくて数日間運動を休んだ。準備もできていないのにやりすぎは禁物だなあと思った。あの時無理をした膝痛の後遺症なのか、いまだにジョギングをすると膝痛になることがある。

セントラルパークはとても広いし道が曲がりくねっているので、南に向かって歩いているつもりでもいつの間にか西に向かって歩いていたりで、道に迷いやすい。私はセントラルパークに行くときはいつも小さい地図と方向磁石をポケットに入れて歩いていた。ちょうど気候の良い春だったのでジョギング後の散歩も気持ち良かった。ジョギングウエアのままでプラザホテルの角まで戻ると五番街の観光客がたくさんいる。その横を通ってEssex Houseに戻って正面玄関から普通の宿泊客と同じように入る。高級ホテルの中に自宅があるなんて、なんだか異次元感覚。人生に一度の贅沢体験を思い切ってやって良かった。


2021年4月号

 

恋愛革命 ~インターネットでの出会い~

前回の記事で、2000年にNYで高級ホテルに二か月住んだ体験談を書いて、さらに当時のことを思い出した。2000年は私が独立して自分の事務所を始めたばかりで、まだクライアントが少なく暇だったので、ホテルのジムに毎日通って体を鍛えていたほかにやっていたことがある。それはインターネットで恋人探しだ。

 

1998年の映画「ユー・ガット・メール」(You’ve Got Mail)は大ヒットして、トム・ハンクスとメグ・ライアンのように、インターネットを通して人と出会うトレンドが始まった。すぐにオンライン・デイティング・サービスのサイトがいくつかできて2000年当時にメジャーだったのはLove @AOLとMatch.comだった。

 

知人が「私の友達がMatch.comで毎週のように新しい人と出会ってるらしいよ。いいよね、今時はそういうのがあって。」と言っていたのに興味を持った。米国は離婚が多いので中年の恋愛市場が豊かで何歳になっても出会いのチャンスが日本に比べて格段に多い。米国では昔から新聞や雑誌の個人広告欄に「自分はこれこれこういう人物で、こういう感じのお相手を求めています。」という数行の記事を出して恋人探しをする文化もあって、それがネット版になっただけの感じ。老いも若きもネット出会いにほとんど抵抗がない雰囲気だった。Love@AOLは無料でMatch.comは高くはないが有料だった。私はとりあえずLove@AOLをやってみることにした。ちなみに数年後にLove@AOLはMatch.comと合併になってLove@AOLはもう存在しない。

 

サイトの説明をよく読んで、まず自分のプロフィールを書く。質問に答える形式で自分のプロフィールが埋まっていく。自分の年齢、学歴、職業、人種、宗教、結婚歴、子供の有無、身長、体型のタイプ、飲酒・喫煙の有無、交際可能な物理的距離の範囲、好きな映画、音楽、趣味、そのほか心理学的な質問条項があってそれに答えることで性格が少し伝わる感じ。どんな相手と出会いたいか相手に希望する事項もそれと同じように書き入れる形式だ。答えたくないことは書かなくてもよい。顔写真は出したほうが10倍アクセスがたくさん来ると説明されていたが、私は出さないことにした。サイト上で好みのタイプを検索して気に入った人がいたら自分からアクセスしてもよい。

 

私はこのプロフィールをアップロードしたら、冷やかしを除いて2か月の間に約30人の男性からアクセスが来た。希望対象年齢を38歳から48歳にしていたのにその年齢からかなり外れた年上や年下からも来た。最初の頃はまじめに全員にEメールでお返事を書いていたが、慣れてくるとあまりにいい加減な人はEメールの書き方ですぐわかるようになったので、厳選して返事を書くことにした。

 

いい加減な人というのは、まずEメールの内容が数行しかなくてやたら短い。私のプロフィールをきちんと読んでいればすぐわかるようなおバカな質問をしてくる。いかにも数打ちゃ当たるみたいに多くの女性に短いEメールを送っているのがありありだ。それにEメールは手紙であってチャットではないのに、短い文章しか書かないという人は長いきちんとした文章が書けないような人で頭の悪さが見え見えだった。本人のプロフィールも質問にあまり答えておらずスカスカだった。本気ではないのが即わかる。

 

Eメールのやり取りを何回かすれば、なんとなくその人がどんな感じの人か、信用できそうな人かわかってくる。文章はその人の人柄や知性があらわれるものだ。嘘はそのうちつじつまが合わなくなるのでなんとなくわかる。本気で私に興味を持った人は私のプロフィールをじっくり読んで、私の気に入りそうなことをしっかり書いてくるものだ。チャットのような短い言葉の投げ合いだけだとそういうのはわかりにくい。だからネット出会いでは、初期はまずそれなりの分量の文章のやり取りの交換が大事だと思う。

 

30人のうちの4人と実際に会うことにした。サイトでは防犯上の注意書きがあって、最初に会うときは夜ではなく昼間にしましょう、誰といつ会うか友達などに言っておきましょう、いきなり車に乗らないようになど注意書きがされていたのでその通りに気を付けた。

 

最初に会ったのはサイコロジスト(心理職)でとにかく文章がうまかった。写真は交換していなかった。会ってみたら頭がつるつるだった。それはまあ置いておいて、職業柄なのだろうけど、カウンセリングみたいにいろいろ昔のつらかった話とか聞きだされて嫌だった。普通だったら女の人はそういう話を聞いてもらうと喜ぶのかもしれないけれど、私は違った。東京に戻っていた3年間を終えて、ニューヨークに舞い戻ってきたばかりで意気揚々としていた時期だったから、そういうのはうざいだけだった。

 

二番目に会った人はジューイッシュの弁護士だった。コンバーティブルの二人乗りのスポーティーなアウディに乗っていた。ニューヨークで人気で何か月も予約が取れないことで有名なNOBUというフュージョン・ジャパニーズのレストランに連れて行ってくれた。何を話したかあまり覚えていない。とにかく遊びなれている軽い感じでちょっと違った。

 

三番目に会った人は元トップガンのパイロットで、退役して貿易会社勤務の人だった。トップガンのパイロットなんてトム・クルーズのイメージが強くて、どんな人が現れるのか期待した。筋肉もりもりではなく背が高くてひょろっとした感じの人だった。父親も兄弟もみな海軍という一家で育ったそうだ。この人はプロフィールは気に入っていたのだが、あまりに性格が悪かった。仕事が忙しいにしても、いついつ会うという約束をしても前日になっても連絡が取れず、ほかの用事を入れずに人に時間をあけさせておいて、すっぽかす。大事な相手にはそういうことはしないものだ。いかにも「俺様」風で、女を虫けらのように思っている感じがした。道理で40才過ぎで今まで一度も結婚したことがない男だよねと思った。

 

そして四番目に会った人が現在の私の夫だ。詳しいことは内緒だ。とにかく私を大切に扱ってくれた。正直でその感覚も私と合っていた。肩幅が広くてスーツ姿がとても似合う人だ。数回デートをしたのち彼は私に言った。「まだLove@AOLにプロフィールを出しているようだけど、もう出さないでくれませんか?」と。たしかに私はまだ消してはいなかったので、彼と交際をしながらも次々と別の人からアクセスは来ていた。私は彼の提案に同意した。

 

ネット出会いで一年以上やってもなかなかいい人に出会えないという噂も聞く。それはいつまでもだらだらとプロフィールを出し続けて、どんどん次にもっといい人が出てくるのではないかと踏ん切りをつけないとそうなるのかもしれない。私は結構早くいい人に出会えてすごく運が良かったのだろうと思う。

 

私はオンライン・デイティング・サービスにすごく感動した。昔は星の数ほど世の中に男性は居るはずなのになぜ出会えないのだろうと思っていたが、現代では星の数ほどの中からネットで探せるのだ。自分の行動範囲ではとても出会えないような人に結構簡単に出会える。画期的な出会いのチャンスで恋愛革命だと思った。しかしこれはネット見合いのサービスとは大きく違って御膳立てはない。すべて自力でやるものだ。プロフィールがあらかじめわかっているので効率が極めて良い。相手に気に入ってもらえるかどうかは本人の力量や魅力次第だ。リアルでの出会いとさして変わらない。

 

若い人は独身率が高いので大学などで出会う機会が多いだろうが、中年になると誰が独身で相手を探しているかどうかわかりにくい。職場ではちょっとなにかするとセクハラ認定されてしまうリスクがある。ネット出会いは2000年以降世界中てあっという間に爆発的に流行して、少なくとも米国では現在の出会いのデフォルトはネット出会いだと思う。

 

日本では不幸なことに90年代終わり頃から携帯電話で「出会い系」と呼ばれる卑猥なサイトが先に出回ってしまって、ネット出会いのイメージが悪かったようだ。誤解があり、ネット出会いの流行がすごく遅れた。それは日本だけの現象のようでガラパゴスだった。当時、日本では携帯電話が米国より進んでいて携帯電話のメッセージ機能で短い言葉の投げ合いをしている人がたくさんいた。携帯電話のキーを何度も押して器用に日本語を送信していた。短い言葉のやり取りで出会う場合はろくな出会いではないことが多いのだ。

 

その頃、米国では携帯電話で短い言葉のやり取りをすることはなくて、PCのEメールが主流で、短いのはAOLのチャットくらいだった。米国人は歴史的にタイプライター文化があったので、アルファベットを一文字出すのに数字のキーを何回も押さなければならないのは面倒で耐えられなかったからだ。ちなみに米国人が携帯電話で短い言葉のやり取りをするようになったのは、ブラックベリー(アルファベットのキーパットがついている携帯電話)が流行した2005年頃からだ。その数年後、iPhoneの出現でスマホ時代に。

 

私の周りを見ても2000年以降現在までに結婚した夫婦や交際中のカップルは5組中4組はネットで出会っている。若い人もネットで出会う人が多い。最初の頃はロマンチックな出会いではないみたいに思う人もいたが、今ではそんなことを言う人は少数派だ。街を歩いていて自分の出会いたいような好みの人に出会える確率など極めて低いのだ。こんな素晴らしいツールを使わない手はない。日本でお相手探しをしている人がいたらネットを使うことを強くお勧めする。


2021年5月号

 

英語の勉強方法 

新学期になって新たな気持ちで勉強に取り組む時期。大昔のことになるが私の得意科目は英語だった。今でも根本的で効果的な英語の勉強方法は大きくは変わっていないと思うので、私の場合を一例として紹介したい。

 

私が英語を勉強し始めたのは地方の公立中学一年の時で、英語の塾に行ったことはない。”I have a book.”から始まるクラウンの教科書だった。中一の時の英語教師はおじいちゃん先生であまり良くなかった。私も他の学科に比べて特に英語が得意というほどでもなかった。それが中二で変わった。

 

中二の時の英語の先生がとても良かった。中年の女性教師で発音記号の読み方の基礎を教えてくれた。そして一人一人あてて単語を発音させた。そして授業中にカセットテープで教科書の米語ネイティブスピーカーの音読を一文ごとに聞かせて、今何と言ったか生徒に答えさせたりした。私は本屋に行って先生が使っているのと同じクラウンの中二の教科書のカセットテープを買って家で練習した。

 

彼女は英語発音は良い方だった。しかしカセットテープの発音と先生の発音が違うなあと思う所ももちろんある。「どちらが正しいのか?そりゃネイティブスピーカーの発音の方が正しいに決まってるよね。」と思って、ネイティブスピーカーの発音をまねた。そのおかげで私の英語の教科書の音読は自分で言うのもなんだがとても上手だった。

 

中一で初めて英語に接して思ったのは、日本語では漢字はいろんな読み方があるが、ひらがなやカタカナは一つの音に対応していて他の音になることはない。ローマ字もアルファベット表記の日本語にすぎず一つの音に対応している。一方で英語はアルファベットの一文字で一つの音が対応しているわけではない。スペルの組み合わせで読み方が変わる。私は中一の頃からだが、新しい単語を覚えるときはスペルだけではなく発音記号も書けるように覚えた。一つの英単語は日本語でいえば漢字のようなもので、発音記号はフリガナのようなものだ。何と読むかよくわからずいい加減に単語を覚えてもだめだと思った。

 

今もそうだかわからないが、学校教育の英語は発音記号は読める程度でよく、書けなくてもよいという指導らしいが、単語のスペルを覚えるだけではなく、発音記号は書けるように暗記したほうが良い。発音記号が書けるということはどう発音するのが正しいのかわかっているということだから。今時は音声が出る電子辞書があるから単語の発音は聞いて覚えればいいと思う人もいるかもしれないが、それはとても耳のいい人向けだ。発音記号の読み方がわかれば音を聞かなくても正しい発音は何かはっきりわかるのだ。正しい音を出せるか出せないかは個人差があるので、それは別問題だが、できるだけ聞こえたとおりの音に近づければよいと思う。

 

発音はとにかくスペルに引きずられずに、聞こえたとおりに音を出すというのがコツだ。文章は音楽と同じで音の高低もリズムもある。英語の文章は音感のいい人なら音符に書けると思う。一つ一つの単語を正しく発音するだけではなく、文章の中での音の流れを聞き取ってそのまま真似ればよい。イントネーションは大事だ。日本人によくあるのは単語を一つ一つとぎれとぎれにして平たんなリズムで文章を読むので何を言っているのか英語ネイティブの人にはわかりにくくなる。

 

日本語の文章は一つ一つの単語で「分かち書き」はせず、つらつら続けて書く。分かち書きというのは、たとえば「平坦な リズム で 文章 を 読む」みたいなことを指す。欧州系の言語はたいてい分かち書きだ。しかし文章を音読するときは、続けて書かれているかのように読むがコツだ。”What am I doing?” なら、”WhatamIdoing?” と書いてあるがごときに音を出す。ネイティブの人がゆっくりではなく、ノーマルスピードで会話するときはそう発音しているのだ。すなわち「ワラマイドゥーイン?」と聞こえる。聞こえた通りをそのまま受け入れてそのまま真似して言えばいいだけだ。

 

聞こえたとおりの音を出せるかどうかは個人の得意不得意があるのは確かだ。動物の鳴き声や、救急車のサイレンの音など音真似をするのがうまい人は、英語の発音も聞こえた通りを再現して音に出す才能が高いはずだ。音の再現が苦手な人はまず動物の鳴き声の音真似をしてみたら訓練になるかと思う。たとえば私は家の庭に時々来る盛りのついた猫の異様な鳴き声”RRRRRR, errrr, Rgaaaw”の音真似をするのが得意で、母が「また盛りのついた猫が来てるのかと思った」とよく言っていた。舌先を後ろに巻いて発音するRや単語のerの音、「え」の口で「あ」と言う音などの練習になった。

 

私の時代は一般的に発音記号は先生があまり教えてくれないので自学自習だった。研究社の英和辞典には終わりの数ページに発音記号の読み方の説明書きがあった。私はそれを読んで発音記号の読み方をマスターした。教科書のカセット版は中学二年から高校三年まで本屋で個人的に毎年買った。それで練習したので私の音読は中高を通して英語の先生よりうまかった。だれも私の音読を揶揄する人はいなかった。たとえいたとしても私はわざと下手に発音することはあり得なかった。とても気が強いので全然平気だったと思う。クラスの友達の一人に肥和野さんの英語の音読を聞くのが気持ちよくて好きだと言われたことがあって印象的に覚えている。

 

その他には高一の四月からNHKのラジオ英会話を毎日聞いた。当時の講師は東後勝明先生で彼の英語は米国育ちでもないのにすごく米語ネイティブに近い音できれいだった。米国で日常的な場面設定をしたスキットを米国人が話すので内容的にも面白かった。高二が終わるまで毎日聞いた。それからNHK教育で放映される米国の幼児向け番組「セサミストリート」をたまに見ていた。幼児向けとはいえ米国のテレビ番組そのままが流されるので早口だし、英語での意味を聞き取るのは簡単ではなかったが訓練になった。

 

私が生まれて初めて外国人と生で英語で少しだけ話したのは高一の頃だった。モルモン教の人が布教のために来ていて、友達に誘われて一度だけ行った。それだけだった。私は米国への一年間の高校留学にあこがれていた。当時はAFSの交換留学とロータリーの交換留学くらいしかなく、実現することはなかった。高三は受験勉強に集中するため英語会話の個人的勉強は止めていた。

 

大学に入って英語とは関係ない学科だったから、英語は少し忘れた。英語の読み書きは高三の頃がピークだったと思う。だが、英語は変わらず好きだったので英語を話せるようになりたくて英語会話の学習教材「リンガフォン」を買った。初期のリンガフォンでとても懐かしい。

 

それから大学一年の春休みに大学主催の米国西海岸二か月間の旅行に行った。ロサンゼルスに一か月滞在して、その後はグレイハウンドの長距離バスを使っての自由旅行だった。ロサンゼルス滞在は安ホテルだったが、この二か月の旅行中に三泊程度のホームステイが三か所で用意されていてそれは本当に良い体験だった。ホームステイは実に英会話力向上に役立つし、カルチャーも見て肌に触れて学ぶことができた。

 

大学二年から東京在住の外国人たちと交流し親睦をはかるという私設の国際親善センターの会員になってときどきイベントに参加した。米国でたったの二か月だったが滞在経験があったので、わりと物おじせず話すことができた。まだぜんぜんペラペラではない状態だったが普通の人よりはかなりましだったと思う。

 

大学院に入ってからは毎日毎日英語の学術論文ばかり読まされるので、英語の読解力が向上した。英会話力は自分でつけるしかないので、留学生と交流したり、図書館にリンガフォンの上級向けのがあったので、それを借りて練習していた。米国に留学する一年前は日米会話学院に一年間通って英会話を練習した。

 

そして1988年に米国に留学してその後、住み着いて今に至る。英語は最初の二年でまあまあ仕事で困らない程度にはなったが、今でもネイティブスピーカーとは大きな隔たりがある。それはもうあきらめている。外国人として米国で生活しているので、それを素直に受け入れてできるだけ前向きに生活していればいいと思っている。


2021年6月号

 

新型コロナワクチン接種 〜フロリダ州では〜 

 私と夫はもう新型コロナのワクチン接種は済んだ。ファイザーのもので一回目は3月18日に、それから3週間あけて二回目は4月8日に行った。二回目が終わってから2週間経ってから発症を抑える効果が95%になる。このワクチンは感染も一定程度防ぐ効果はあるが無症状感染する可能性はある。だから、その場にいる全員がワクチン接種済みならばもうマスクをする必要はないし、密になっても構わない。しかしその場に未接種の人がいるなら、ワクチン接種済みでももし無症状感染していれば、相手を感染させてしまう可能性はあるので、マスクをして密は避けなければならない。

 

 ちなみにファイザーかモデルナのものなら二回の接種が必要だが、ジョンソン・アンド・ジョンソンのものなら一回だけで済む。ジョンソン・アンド・ジョンソンのものは一回で済むというのがメリットだが発症を抑える効果は70%程度で、重症になるのは95%防ぐとされている。

 

 ワクチン接種のおかげて米国社会は大きく変わった。新型コロナ感染者数も死亡者数も減少し、元の生活に少しずつ戻ってきていて世の中が明るくなった。そうは言っても現在フロリダ州の新型コロナの1日の新規感染者数は五千人位で、人口比で東京よりも遥かに多い。まだ接種が終わっていないのに気がゆるんだ人が多いようだ。それにしても新型コロナワクチン接種の効果がこんなに高いとは、現代の科学の進歩の素晴らしさをつくづく感じる。

 

 ワクチン接種はまず1月後半から医療従事者に優先接種され、その後65歳以上の高齢者になった。夫は66歳だが循環器系疾患があり、心臓の冠動脈が詰まりやすい。接種の副反応がまだよくわからなかったので、様子見をしていた。それでしばらくしてどうやら評判も良く大丈夫そうだと思って、いざ予約を取ろうとしたら、近場の接種会場は予約が満杯で、何度オンラインで予約を取ろうとしても全然取れなかった。すっかり出遅れてしまった。

 

 3月15日からは60歳以上が接種可能年齢に下げられた。予約は早い者勝ちなので65歳以上であろうとなかろうと同じラインに並ぶことになる。私たちは焦ってどうやったら予約が取れるのか調べまくった。それで、近場ではなく少し遠い会場まで行けば予約が空いているところがあると聞き、ようやく3月19日の予約が取れて喜んだ。私も60歳以上の資格で夫と同じ日に予約を入れた。

 

 ただ、隣のカウンティ(郡)にある大きな公園にある会場で場所も不慣れなところだったし、夫と私が同時にワクチン接種して、何かあったら車を運転して家に戻れなくなるので、夫の娘に一緒に行ってもらって運転を頼んだ。接種会場は家から車で45分位の所だ。私と夫はてっきり会場に建物があってそこでやるのだろうと思っていたのに、そこはなんとドライブスルー形式だった。

 

 公園の入り口にワクチン接種はこちらという看板が出ていて、「車のガソリンは十分あるか?」という注意書きの看板があった。私たちの車は前の車にそろそろついて行って、ようやくここはドライブスルー形式の会場だったのかと気が付いた。車が長蛇の列。11時に予約していて20分前に到着し、ずいぶん待たされて接種できたのは12時半だった。どうりでガソリンは十分あるかという注意書きがあった訳だなあと思った。ガス欠になる車が出たのだろう。車で並んで少しずつ進む間に電話ボックスのような簡易トイレがあちこちに設置されていた。

 

 接種してくれるところは公園の中にテントが20個くらい張ってあって一つのテントに看護師が二人いて、書類事務と接種をしてくれる。接種そのものは痛くない。インフルエンザのワクチン接種と大して変わらない。接種が終わって15分車の中で待機して時間が経ったら去ることが許される。

 

 接種して当日の夜になってから接種した左腕の筋肉痛が始まったが大したことはなかった。翌日になると筋肉痛が増していて右腕は上に180度あげることができるが左腕は170度しか上がらなかった。夜にはましになって3日目にはもう完全に回復していた。熱が出ることも頭が痛くなることもなかった。夫も私と全く同じ症状だった。

 

 4月8日に同じ会場に二回目の接種に行った時は、もう40歳以上が接種可能になっていたので、一回目の時よりもっと混んでいるかもしれないと覚悟をして行った。一回目で私も夫もひどい副反応はなかったので娘は呼ばず、二人だけで行った。そしたらあまり混んでいなくて車ですいすい進めて拍子抜けだった。わりとすぐ接種をしてくれるテントの所まで進めてびっくりだった。3週間の間にテントの数がずいぶん増えて40個くらいあった。どうりで回転が速い。一回目の時と同じ要領で進んでさっと終わって家に帰ることができた。

 

 二回目の接種では筋肉痛が来るのが早かった。当日の夜から左腕が160度位しか上がらない。翌日は135度しか上がらなかった。しかし3日目の夜にはすっかり回復した。夫も私も熱が出ることもなく無事に済んだ。

 

 私と夫はなんとか接種を終えたが、もう車の運転が難しくなって近場の会場しか行けない高齢者たちがいつになっても予約が取れず取り残されていたが、最近になってようやく行政側からそういう人達に連絡が来て、接種の手助けされてなんとかなってるようだ。

 

 夫の娘は30歳だが 高校教師なので優先接種があって予約の取り方も要領が良く、私たち夫婦より数日早く接種を済ませていた。彼女はCVSという大手の薬局チェーン店で薬剤師に接種してもらった。米国では以前からインフルエンザなどのワクチン接種は気軽に薬局でできる。彼女の夫は一回目は済んだが二回目がまだだ。二人とも接種を終えたら又以前のように10日に一回程度家によんで一緒に夕食を共にすることができる。今はそれが楽しみだ。


2021年7月号

 

日本の外から見える日本 ~五輪中止をあおる奇妙さ~ 

今現在、東京五輪が始まる50日前だ。これまで東京五輪を叩きまくって五輪中止を主張し、視聴率や販売部数稼ぎに集中していた、売らんかなの一部のマスコミも、さすがにもう五輪中止をこれ以上あおっても中止にはならなさそうだと気が付いて、さすがにそういう記事は減ってきた。そろそろ方向転換しないとまずい、メダルラッシュで感動のストーリー記事を書いて売らなければならないし。しかしまだ、中止だと言い張っている人たちはいる。

 

去年まだワクチンができていない頃ならともかく、新型コロナワクチン接種が始まって大きく世界は変わったのだ。IOCは強制ではないが、選手や五輪関係者はワクチン接種済みで東京に行くようにと強く要請していて、すでに各国にワクチンを無料で供給している。IOCは本気で、ほとんどがワクチン接種済みの一種の隔離されたエリア内で五輪を行うことを準備している。選手や関係者たちは厳しく行動制限された範囲を往復するだけだ。毎日のようにPCR検査をする。未接種の一般人とはほとんど接触しない。今回の五輪では選手は競技出場の5日前にならないと五輪村に入村が許されず、自分の出番が終わったら48時間以内に選手村を出なければならないことになっていて、日本の滞在期間はとても短い。

 

日本のマスコミはそういうことをなぜかあまり報道しなかった。今回の東京五輪では新型コロナ感染対策のために特別な行動基準が書かれた「東京五輪プレイブック」がネット上に公表されているが、それを読んだ日本の人はどれだけいるだろうか。6月中にプレイブックの第三版が出てそれが最終的なものになるのだが。

 

とにかく日本のマスコミの報道は偏向的なものが多かった。連日ワイドショーで東京五輪を中止せよと大合唱で、低俗な一部の新聞やSNSでは、五輪で9万人もの外国人たちが来て変異種を日本でまき散らして日本が壊滅的なことになると不安をあおった。今回は外国からの観客は禁止されたので来ない。東京五輪に出場する選手は全部で1万2千人位と言われているのに、なぜ9万人も五輪関係者たちが来るというのか。IOCは今回は東京に行く関係者の数はかなり減少させたと言っていたので、そんなに来るはずがない。

 

外国からの選手や関係者はほとんどがワクチン接種済みで来るはずだ。今回の五輪は特殊だ。選手は万一陽性になったら競技に出場できなくなる。せっかく五輪代表になったのに出場できなくなったら一巻の終わりだ。選手自身も関係者も選手を絶対に陽性にはしたくないので彼らは必死で陰性をキープしているのだ。外国から見れば彼らこそクリーン側で、未接種の一般人の方が汚染側なのだ。

 

五輪村以外にホテルに宿泊する選手や関係者もいる。実際、ツイッターで彼らが宿泊するホテルの人がつぶやいていた。「外国からの選手や関係者はみなさんワクチン接種済みだし、検査も毎日のようにしているので心配ありません。むしろ未接種の私たちが選手を陽性にしてしまったらどうしようと心配です。」と。

 

五輪選手や関係者たちはまあ問題ないとしても、外国から来るメディア陣たちが公共交通機関を使ったり、気ままに出歩いたりして日本で変異種をまき散らすという人もいる。しかし五輪のメディア陣のほとんどは先進国からの人で、ワクチン接種済みで東京に来るはずだ。発展途上国からのメディアの人も数が少ないだけに本国でワクチン接種をしてから来る可能性が高い。なぜならワクチン接種済みでないと選手に嫌われて対面でインタビューをすることが難しくなるからだ。

 

ファイザーのワクチンは発症を防ぐ効果が95%で、感染を抑える効果は一定程度あるがどの程度かはわからなかった。しかし最近のデータで感染自体を防ぐ効果が8割から9割あると公表された。ワクチン接種さえしていれば無症状感染することも少ないのだ。

 

IOCは日本の五輪選手や関係者たちに2500人分のワクチンを無料で提供した。6月1日からその接種が始まっているが一刻も早く接種を始めるべきだった。ファイザーのワクチンの場合は一回目を接種して三週間あけてから二回目を接種し、その二週間後(日本では一週間後と言われている)から効果が出る。年齢が高い人より若い人の方が副反応が出やすいそうなので、五輪選手は接種のタイミングが重要だ。外国の選手たちはそういうことを見越して早くからワクチン接種を始めていた。

 

それなのに高齢者の接種がまだ終わっていないのに五輪選手たちが優先されるのはおかしいと的外れなことを言う人がいて閉口する。日本の65才以上の人口は日本の総人口の約29%もいるのだ。五輪選手の人数は千人程度だから彼らを優先接種しても大勢に何ら影響はない。IOCは日本のボランティアやその他の関係者たちにもワクチン接種をするようにと追加で2万人分のワクチンを無料提供している。ワクチンの提供数は今後も増やされる可能性がある。彼らも一刻も早く接種すべきだ。

 

日本には心配症の人が多過ぎるように見える。6月3日現在で、新型コロナの一日の新規感染者数は日本(人口1億2千万人)は約3千人、米国(人口3億3千万人)は約1万7千人だ。人口比で見ても米国のほうが現在でも感染者数は多いのだ。しかし米国ではワクチン接種が進んで今はマスクはしなくてもよくなり、ビジネスもだんだん元通りになってきて社会が明るい。米国も英国もイタリアもあんなに感染が酷かったのに三か月で大きく変わった。日本はワクチン接種が遅れたが、もともと感染者数も死亡者も国際的にはとても少なかったのだから、ワクチン接種が進めば短期間にかなりの感染者数の減少が見込まれる。

 

米国でワクチン接種が医療関係者たちに始められた今年一月に、もし日本が東京五輪をやらないのなら、フロリダ州が代わりに五輪を開催すると手を挙げたことがあった。当時フロリダ州では一日の新規感染者数は1万人を少し超えていた。しかしスポーツ競技は選手の検査や入場者数の制限で順調に行われていたので自信があったのだろう。IOCには一蹴されたが。

 

日本のメディアは外国の東京五輪の開催を危ぶむ記事を見つけては、外国でも東京五輪の開催は反対されていると大げさな記事を流し、日本の一般人を誤解させた。あれは外国新聞のスポーツ欄に出された小さい記事がほとんどで、極東地域在住の記者が日本のニュース記事で五輪について書かれていることをまとめてさらに少し付け加えて本社に提出したものにすぎない。外国がその国として東京五輪の中止を望むというような内容ではない。

 

そもそも外国ではあまり五輪に興味がない人が多い。米国では今年東京五輪があることを知らない人がかなりいる。だから米国の一般の人が東京五輪の中止を望んでいるわけがない。中止も何もない、何も考えていないというのが実態だ。それはほかの国でも同じようなものだと思う。去年東京五輪が一年延期になったのは、各国の五輪委員会が一年延期を望んだからそうなったのだ。今年は各国の五輪委員会は東京五輪は開催支持だ。だからこそIOCは東京五輪を開催するのだ。

 

東京五輪を中止せよと主張する人の中にはかなりのインテリもいる。なぜそう考えるのだろうと思ったが、たぶん情報不足なのだろうと思う。私のような骨太の五輪ファンは一生懸命情報を集めて客観的に科学的に判断することができるが、普通の人は世間で流されている情報で判断するのだろうと思う。

 

テニスは四大大会があるし、サッカーはW杯があってそっちの方が優先順位が高いので五輪はついでに出るだけという感じがあって別だが、多くのアマチュア競技では四年に一度の五輪が最高峰だ。小さい頃から何年間ものつらい厳しい訓練に耐え、精進し、大事なものも捨てて、必死で努力して人生をかけてやっと五輪に出場できるのだ。選手が四年に一度の五輪にピークを合わせるのはとても大変なのだ。

 

五輪選手にとってこの一年はとても辛いものだった。大学受験で例えるなら、東大理三に合格見込みでA判定なのに、「今年は入試はありません。一年延期です。」と言われて、しかたなく浪人してまた一年必死で勉強したのに「今年も入試はありません。」と言われるようなものだ。

 

私はツイッターで「東京五輪は中止がいいと思うのは個人の自由だが、選手たちの気持ちをこれ以上傷つけるようなことをするのはお控えください。」と去年から何度もつぶやいていた。しかしあろうことか競泳の池江璃花子選手に「東京五輪を辞退せよ」だの「東京五輪の中止に協力せよ」だのと言う人たちが出た。洗脳されたような人たちはこんなにもひどいことをするのかと恐ろしく思った。

 

体操の内村航平選手は「もしこの状況で五輪がなくなってしまったら、大げさに言ったら死ぬかもしれない。それくらい喪失感が大きい。それだけ命かけてこの舞台に出るために僕だけじゃなく東京オリンピックを目指すアスリートはやってきている。」と語った。その内村選手の言葉に対しても叩く人がいて、いったいどこまで闇が深いのだろうと思った。五輪選手を甘く見てはいけない。彼らは侍なのだ。米国大統領バイデンはずっと東京五輪開催支持で、アスリートたちにリスペクトをといつも言っている。

 

数日前に東京大学の准教授が出した報告では「外国からの選手や大会関係者らの入国が都内の新規感染者増に与える影響は限定的だが、国内での人の流れの増加が大きく影響する。人の流れをいかに抑制するかが重要。」と書かれていた。本当にそうだと思う。特に五輪開催中は仕事以外ではできる限り外出せず、家にずっといてテレビを見ていてほしいと思う。 


2021年8月号

 

マイアミのコンドミニアム崩落 

7月4日現在、死者24人、行方不明121人。三日前には行方不明者の捜索及び瓦礫の撤去作業をしていた消防士が自分の7歳の娘の遺体を発見したという痛ましいニュースが駆け巡った。

 

6月24日午前1時15分頃、マイアミビーチの北でオーシャンフロントにある12階建てのコンドミニアム(日本で言う分譲マンション)が突然崩落。場所は夫と私が住む家から約80キロ南に位置する。そのニュースを私はツイッターを見ていて午前2時ごろ知った。すぐテレビをつけた。ローカルテレビ局もCNNもずっとそのニュースを流していた。

 

コンドミニアムが倒壊する瞬間の映像が流されていた。それはセキュリティカメラが録画したもので真夜中で真っ暗のはずだが薄明りでもはっきり映っていた。ビルを爆破するときのように下から崩れ落ちる映像だったので、私は階下の駐車場に爆弾が仕掛けられていたのでは?これはテロでは?と思った。しかし一般人が居住する住宅ビルにテロというのは奇妙だとも思った。2001年の同時多発テロでNYのワールド・トレード・センターが倒壊するときの映像を連想させるものがあった。誰もが一瞬テロを疑ったと思うがマスコミは一切「テロか?」とは言わない。米国の沽券にかかわることだから、軽々しく言ってはならないことになっている。

 

翌朝になってもっといろいろな情報が出ていた。1981年に建てられたコンドミニアムでちょうど40年経過で強制的な建物点検の年で、屋根を修理中だったと。しかし、それは崩落には関係ない。あのコンドミニアムには全部で136ユニットあって、崩落したのは55ユニットだ。崩落当時に誰が居住していたか訪問していたかははっきりとはわからない。別荘として利用していて誰もいなかったユニットもあるだろうし。

 

フロリダ州知事、マイアミ・デイト郡の市長、マイアミビーチの町長、警察の長などが次々に状況を説明する。フロリダ州知事以外それらの長はみなバイリンガルで英語で説明した後にすぐスペイン語で同じことをもう一度言う。通訳は無しでスペイン語がそのまま流れる。フロリダ州は中南米からの移民が多くスペイン語の人が多いのだ。

 

夫と私は2019年の春にあの崩落したコンドミニアムの近くで1キロ強ほど北にあるリゾートホテルSt. Regis Bal Harborに泊まったことがあるので、あのエリアの雰囲気はだいたいわかる。あの辺りはマイアミビーチのノースビーチに位置し、マイアミビーチのメインであるサウスビーチの賑やかさや喧噪はなく、落ち着いて静かなビーチが続くエリアで、高級なリゾート・コンドミニアムやホテルが連なる良い住環境だ。近くに高級なショッピングモールもある。

 

あの崩落したコンドミニアムの住民にはユダヤ人や中南米系の人が多かったものの、高齢者も若い人もいて特定の人種・民族層に偏った特色はないと記事に書かれていた。オーシャンフロントで海の風景が美しいコンドミニアムなので、すごく高いのではないかなと思って不動産情報を調べた。最上階の広いペントハウスは2億円くらいするが、多くのユニットは6千万円から8千万円位で買えるので、あの辺りではそんなに高級物件というほどではない。築40年のコンドミニアムというのはそんなに古いというわけではなく、マイアミビーチ周辺には築40年位の物件は五百棟くらいあるとテレビで言っていた。

 

そもそも米国では住宅は百年くらいは軽く持つのが普通で、ニューヨークなど米国東北部には築百年以上でビクトリアン調のクラシックな石造りの家があったりする。フロリダ州は米国東北部ほど開発が早くなかったので、マイアミ以外は長い間かなりの田舎で、マイアミビーチもノースビーチのリゾート開発でコンドミニアムがどんどん建てられたのは80年代だった。

 

数日前のニュースによると、まだまだ崩落の原因究明には長い時間がかかるそうだが、現時点の情報では、あの崩落したコンドミニアムは2018年の点検時にメジャーな構造的なダメージがあると報告書に書かれていた。それでコンドミニアムの保全組合の委員長は改修とリノベーションに9ミリオンドル程度かかると予想額を出していた。その後、今年4月にメジャーなコンクリート・ダメージが建物の基礎周りにあって、この3年でかなり悪化が加速しており、プールそばのコンクリートの構造板の劣化が指摘されていた。改修とリノベーションに16ミリオンドル程度かかると予想額を大幅に増額していた。住民はそのことを知らされていたのかははっきりしないが、崩落したユニットの持ち主はコンドミニアムの保全組合に対して訴訟を起こしている。

 

住宅ビルは新築なら最初の数年間は建設会社の保証があるが、その期間を超えると建設会社にはよほどのことがない限り責任はない。集合分譲住宅の場合は、所有者が建物の保全組合を作って組合の委員には数人が選出される。その組合が建物の保全に責任を持つ。一般的には米国のコンドミニアムは多くの場合かなり保全管理が良くできていて、定期的に建物の修理もリノベーションもするので、古くなっても不動産価値は下がることはなく、どんどん上がっていく。その代わり毎年そのための建物保全費用の積立金は各戸に重くかかる。今回のコンドミニアム崩落は米国政府が非常事態宣言を出したので政府から自然災害の時などに適用される補償金がでるだろうからましだが、家や家族を突然失うのはあまりにも悲しい。

 

あの崩落したコンドミニアムはChamplain Tower Southという名前の建物で、実はそのすぐそばに1981年の同時期に建てられたChamplain Tower Northという、ほぼ同じ形の建物がある。そしてさらにその十年後の1991年に建てられたChamplain Tower Eastというやや小ぶりの建物もある。そこに住んでいる住民はいつ自分が住んでいるコンドミニアムが崩落するか怖くておちおち住んでいられないので、希望すれば避難できるように行政にアレンジされている。

 

7月4日日曜日の深夜、崩れず残った建物部分が全部崩落となった。フロリダ州に温帯低気圧が近づいていて月曜の夜から火曜日にかけて暴風雨が予想されていて、そのままにしておくのは瓦礫の撤去作業の人たちや近所に住む人たちに危険が及ぶことが予想され、あらかじめ爆弾で爆破してしまうことになったためだ。

 

同日、7月4日は米国独立記念日だ。今回は米国でほぼ新型コロナ禍が終わったお祝いの花火が例年にも増して派手に各地で夜空に打ち上げられた。その一方で、マイアミでいまだ行方不明のまま瓦礫に埋まってしまっている人々。突然家を失い愛する家族を失った人達の深い悲しみは消えることはない。行方不明の人たちの写真とメッセージが書かれた張り紙がたくさん張られたフェンスで祈る人々の姿が痛々しい。 


2021年9月号

 

東京五輪~日本の外から見えたもの~

7月23日の開会式から8月8日の閉会式まで毎日米国NBCテレビで五輪を見た。私は1964年の東京五輪を幼い頃に見てから、一回も欠かさず五輪を見ている。今回の一年延期で開催された東京五輪2020は新型コロナ禍の五輪ということで、特殊な五輪だった。

開会式は予想通りシンプルなものだったが、よく工夫されていたと思う。聖火の最終走者が大坂なおみだったのは世界で評価が高かったと思う。日本が将来に向けて多様性を受け入れるという象徴と感じた。

 

競技の前半は、柔道、競泳、体操、卓球などで早くも日本人選手のメダルラッシュ。それも金メダルが予想以上に多くてびっくり。後半はレスリング、野球、ソフトボール、サッカー、空手などでメダルラッシュ。地元開催の有利さはあるにしても素晴らしい。陸上競技やウェイトリフティングや水泳の飛込み競技なども私はしっかり見た。

柔道は一番日本がメダルをたくさん取った種目だが、残念なことに米国のNBCテレビでは一度も放映がなかった。ネット上で見るストリーミングならすべての競技を見ることができるので、それで見た。米国では柔道はマイナー競技でメダルを取るような強い選手がいないので放映がないのだ。

女子体操でシモン・バイルズが、女子団体で跳馬の後で棄権したのは驚きだった。個人総合も棄権して、彼女の心の闇がいかに深かったのか気の毒でならなかった。思えば7月初旬に米国の代表選手を決める大会ですでに彼女は少しおかしかった。彼女はミスをした時に泣いた。そんなに泣くような大きなミスでもなかったのに。ミスをしても彼女は堂々の一位で優勝。誰もがシモン・バイルズが東京五輪で個人総合で金メダルを取るに違いないと思った。テレビCMでもシモン・バイルズが多用された。彼女にはそうした米国民からの期待が重すぎたのだろう。そしてミスをする自分が許せないという完璧主義的なところが自分をどんどん追い詰めていったのだろうと思う。トップ選手のメンタルはとても深いものがある。

日本で五輪が開催されて、それまで五輪中止をあおっていたワイドショーや低俗な一部のマスコミは予想通り手のひらを返して五輪のメダルラッシュを放映し、記事にしたようだ。それはそうだろう、視聴率や部数が出ることが一番なのだから。

7月の後半から新型コロナのデルタ株が日本でも米国でも猛威を振るい始めた。東京都の新型コロナ陽性者数は短期間で急激に増加した。しかし科学的には五輪との関連は薄いようだ。現在の感染拡大は主に以下の要因が大きいと思う。

1、 デルタ株の半端ない感染力の強さ

2、 リモートワークが進まないこと

3、 Stay Homeせよといくら言っても無視してふらふら自分勝手に外出する自制心のない一般人がいること。

五輪を中止せよという人は、五輪が開催されることで人流が増え感染増加につながるからだと主張した。しかし無観客開催だし、統計的には五輪開催期間に人流は減少している。国立競技場の五輪のモニュメントの前で記念写真を撮る人出や、トライアスロンなどチケット不要で沿道で見られる競技に人出があったとはいっても、新宿、渋谷などの繁華街や大きな駅のラッシュ時の多大な人出に比べたら、それらは砂粒程度のことに過ぎない。

一般人で「五輪をやっているのだから自分も外出していいと思った。」と言う人がいたが、それは理由にならないと思う。五輪は安全なバブルの中で行われる別世界で、一般社会は無防備な世界なのにそれを理解していないのだろうか。そもそもこういう人は、もし五輪がなかったら外出せずStay Homeしたのだろうか。五輪ネガティブの人は、現在の日本各地での感染拡大は五輪開催が人に外出してもいい気分をかもしださせたのだと主張し、開催中だが今すぐにでも五輪を中止せよと叫ぶ人もいた。

しかしながら、日本政府が「日本には五輪開催でうかれて外出してもいいだろうと思うような自制心のない愚民がおりまして、Stay Homeしないので五輪は中止せざるを得ません。」なんて言っても世界の五輪委員会や五輪アスリートたちが納得するわけがない。いくら有権者でも自分勝手で自制心のない人に合わせて国の運営はできない。

五輪のバブルに穴が開いていて危険だという主張をする人もいた。そもそもIOCが準備した五輪のバブルは完璧を最初から目指してはおらず、ほどよく十分に安全であることを基準としていたと思われる。バブル内の人にはできるだけ多くの人がワクチン接種するようにボランティアやメディア陣にも無料提供されたが、全員というわけにはいかなかった。五輪選手や関係者やメディア陣の陽性者数が定期的に何度か発表されたが、陽性になった人は実は外国人よりも日本在住の人の方がずっと多かった。そのことを日本のメディアはあまりはっきりとは言わない。陽性者は出入り業者の人というのが毎回一番多くて、彼らは未接種かワクチン接種はまだ一回しか済んでいない人だったのかなと思う。彼らは自宅通勤だろうからそういう人がバブルの中に出入りすることは最初からわかっていたこと。そのくらいのバブルの穴は許容範囲という西洋的な合理的な判断だったと思う。「ゼロコロナは目指さない、コロナとともに折り合いをつけながら生きる」という発想と同じだ。

一方で、バブルの穴が開いていて「五輪選手や関係者で一般のタクシーを使って移動している人がいる。そんな人が乗った後のタクシーに乗るのは怖い。」とツイッターでつぶやく一般人もいた。しかし科学的に考えたらそれはおかしなことだ。五輪選手や関係者はほとんどがワクチン接種済みで連日検査で陰性確認をしている。日本在住の未接種で無症状感染しているかもしれない一般人が乗った後のタクシーとどちらか感染リスクが高いだろうか。

ネット上で、スペイン人記者が明かした「本音」という記事をみた。「我々はよりコントロールされた立場にあると言える。もちろんそれでも周りの人を感染させるリスクはゼロではないが、少なくとも一般の日本人よりは可能性が低いはずだ。」と。外国人からすれば当然そう思うだろう。「外国から来る人は怖いもの」みたいなイメージは、去年ワクチンがまだなかった頃ならしかたないが、いつまでも外国人を変な目で見るのは良くない。「おもてなしの心」はどこへ行ったと私は感じた。

今夜、先ほどNBCテレビで閉会式を見た。選手入場の時の行進曲がなんと1964年の東京五輪開会式で使われた古関裕而作曲の『東京オリンピック・マーチ』を、アレンジした曲だったのが最高に良かった。私の年代位が昔の東京五輪をまあまあ覚えているぎりぎりのところかなと思う。人生で東京五輪を2回も見られた幸運な年代だ。あの曲は本当に人をワクワクさせる名曲だ。うれしくて米国人の夫の前で行進して見せた。いろんな思いがよみがえって涙が出そうだった。

開会式では私にはさっぱりわからないゲーム音楽が流れるなど若い人向けの演出が多かったので、閉会式は中高年向けの演出なのかなと思った。坂本九の『上を向いて歩こう』も1960年代に米国で大流行して、夫が大好きな曲だ。90年代にリバイバル・バージョンのものがはやったので米国でもなじみがある曲で人気がある。この閉会式は世界に向けてだけではなく、私のように長い間日本を離れて外国生活している日本人が懐かしんでくれるような工夫がされていたのかもと思った。東京音頭は簡単な振り付けで外国の選手たちも真似して踊っている人もいたし、私もテレビの前でつい踊った。若い人たちには「なんじゃあれ、ださいなあ。」という感じだったかもしれないが。

ともかく東京五輪が無事終わって良かった。世界の選手たちも言っていたように、東京五輪を開催してくれてありがとうと感謝の気持ちでいっぱいだ。


2021年10月号

 

20周年 

9・11同時多発テロ~あの時のこと~

9・11同時多発テロから20年もたった。私はあの時ニューヨークのマンハッタンにいた。10年前に倉文協だより267号でこのコラムが「ニューヨークの風」という名称だった頃、私は同じテーマで記事を書いたことがある。内容的に重なる部分がほとんどになるが、今一度あの時のことを振り返る。

2001年9月11日火曜日、私はグラウンド・ゼロから直線距離で約3キロ北東の地点にある自宅にいた。出勤で家を出ようとした夫が「ワールド・トレード・センター(以下WTC)に飛行機が衝突したらしいよ。」と言うので私はセスナ機が事故でぶつかったのかなあと思った。夫が家を出た後、テレビをつけるとWTCの2機目の旅客機が突入した後だった。衝突の映像が繰り返し流される。一機だけならともかく2機ということはテロだとすぐわかった。そのうち画面がワシントンDCのペンタゴンに切りかわり、そこにも旅客機が突入したというニュースが飛び込んできた。ペンシルバニア州にも旅客機が落ちたというニュースも。

しばらくして別のチャンネルに移すと、WTCがさっきよりはるかに煙が多くなっていて建物がよく見えない。アナウンサーの言葉で一棟が倒壊したことを知った。しばらくテレビにくぎ付けになっていたが、通りに出ればWTCが直接見えると思って外に出た。すると向こうから来た男性が「たった今、2棟目が倒壊した!」と叫ぶ。私はこの時点で、これはテレビを見ている場合ではないと認識し、自分自身が非常事態モードになって心臓がどきどきした。

自宅に戻り、あわてて家にある現金をかき集めて大きなリュックサックを背負ってまずスーパーに買い出しに行った。テレビでマンハッタンに入る橋やトンネルは封鎖されたと言っていたので物資が入らなくなるのを懸念した。スーパーではクレジットカードは使えなくなっていた。人より早く行ったので買い物は十分できた。スーパーから家に戻る時、南の空を見るとあまりにも煙が大きく広がっていたので、私はダウンタウンが大火事になっているのかと思った。うちも危ないかもしれないと走って家に戻った。テレビを見ると大火事ではなく、ビルの倒壊の煙が大きいのだとわかり、ほっとした。

 

それから日本のお米をきらしていたので、それを買いに南に歩いて15分の所にある日本食料品店に向かった。通りに出ると大勢の人が一斉に北へ北へと蟻の大群のように歩いている。私一人が南に向かって歩いているという変な感じだった。日本食料品店で米や缶詰など日持ちのする日本の食品を手に入れ、レジに並んでいると、日本から来た旅行者らしき女子大生が韓国人の若い男性に連れられて来た。彼は「この女性はWTC近くにいたのだけれど、彼女は英語がわからないし、僕は日本語がわからない。今何が起こっているのか、どうやってホテルに戻ったらいいのか教えてあげてください。」と店員に頼んでいた。

帰り際にエレベーターで彼女と一緒になり、聞くと、彼女は「WTCの展望台に行こうとしたらあんなことになって。ビルが倒壊した時は地上の別のビルの軒先にいました。逃げる時に友達とはぐれてしまって。もう何が何だかわからなくて…。」と言った。ふと見ると彼女の頭の後ろ側は粉塵で真っ白になっていた。

 

家に戻る時は私も北へ北へと歩く大群の一人になっていた。私はリュックを担いでいたし、いかにもWTCやその近辺からの避難者に見えたらしく、赤十字の救援テーブル前で水を手渡された。なぜかゴムぞうりを売る露天商があちこちに出ている。自宅に戻ると夫が帰宅していた。勤務地はミッドタウンなので無事なのはわかっていた。夫は朝バスを待っている時、WTC二機目突入時の大きな火の玉を見たそうだ。オフィスが臨時休業になり、帰りは交通機関がマヒしていたので1時間近くかけて徒歩で帰ってきたという。通勤靴やハイヒールでは長時間歩けないので、ゴムぞうりは徒歩帰宅のために売られていたのだった。この日、自宅が遠方の人は帰宅が困難で何時間もかかった。

翌日、マンハッタンの14ストリートから南は封鎖され立ち入り禁止。うちは16ストリートだったので免れた。14ストリートには大きな機関銃をもった軍隊が並んでいる検問がある。運転免許証など自宅が14ストリートより南にあることを証明するものを提示しないと入れない。14ストリートより南では所によって電気・ガス・水道に被害が出ていたが、北側では特に問題はなかった。家の前の歩道の露店で昨日の日付のNYTimesとWall Street Journalが売られていた。一日古い新聞が売られているなんてこの日だけだろうなと思った。

マンハッタンは14ストリートを境に大きく雰囲気が違う別世界となった。南側は戦地か被災地かという雰囲気で、北側は比較的普通だった。あまり知られていないが、テロ直後の二日間、大通りは車がほとんど通らなかったので、うちの近くの大通りではスケートボードを楽しむ若者もいた。もっと北のアップタウンでは普段通りにレストランで食事を楽しむ人もバーで飲んでいる人もいたようだ。

 

9月19日水曜日。グラウンド・ゼロのかなり近くまで一般の人が初めて行けることになった。この悲しい歴史的出来事をしっかり覚えておくために、この目で現場を確かめようと私は地下鉄で南に向かった。フルトン駅で降りる。この駅はWTCから1ブロック東で、現場から200メートルの至近距離だ。

 

地上に上がるといきなり軍隊、警察官、そして粉塵まみれのままの店の窓の日よけが目に入った。すぐ横を見ると、グラウンド・ゼロの方向に黒こげになったビルが見え、その後ろから煙が上がっている。うわっと思った。そこはたしかに戦地だった。グラウンド・ゼロに向かおうとして、ヘア・キャップをかぶって、ガスマスクを装着中の女性警官。

 

1ブロック南に行くと、ツインタワーの瓦礫が見えた。煙の臭いだけではなく、きつくはないが何か違う匂いがした。ひょっとしたら死者の匂いだろうかと思った。もしWTCに突っ込んだ旅客機に核爆弾や生物化学兵器が仕掛けられていたら、私も生きていなかったかもしれない。

こんな近くまで来られるとは思わなかったので少し驚いた。テレビでよく映るツインタワーの残った足元部分もよく見えた。この周辺で働く人たちだけでなく、プロ・アマのカメラマン、行方不明者の家族、私のような一般市民、観光客などで狭いストリートが混んでいた。警官が「立ち止まるな、キープ・ゴーイング!キープ・ゴーイング!」と叫ぶ。

 

あたりの道は一応粉塵を取り除いてはいるが、表面が白っぽい。空気が悪くマスクをして歩いている人もいた。マクドナルドは悲惨さを伝えるために、わざとウィンドウの灰を落とさず、そのままにしていた。ウィンドウの灰にはたくさん指で書かれたメッセージがあった。

 

あまり長くいる気がしなかったので15分位いただけで、地下鉄に乗ってユニオン・スクエアまで戻った。週末よりさらにろうそくや花束が増えていた。地下鉄で数駅。数分前まで私は戦地にいたのに、そこは日常のマンハッタンのままの賑わいだった。政府からテロに屈せずできるだけ普通の生活をするようにと米国市民は鼓舞されていた。自粛していたら経済も落ちてしまう。

うちに歩いて帰る途中、べス・イスラエル・メディカル・センターのそばを通った。行方不明者の写真入りの紙が数日前より増えていた。一つ一つ見ていくと日本人のものがあった。富士銀行の12人、野村総合研究所の2人、米国企業のCanter Fitzgeraldの1人。富士銀行の12人のものはスナップ写真を引き伸ばしたもので多くは笑顔で人柄が伝わるような、幸せそうな写真だ。赤ちゃんを抱いている写真もあった。野村総合研究所の2人の分は家族から取り寄せる写真が間に合わなかったのかパスポートの証明写真だった。Cantor Fitzgeraldの人の分はとても精悍な顔をしていた。日本人の張り紙を見たのはその時が初めてだったのでつい、食い入るように見てしまった。

グラウンド・ゼロからの煙は9月11日の当日は風が南西方向に流れていたので、運よくうちのあたりは距離的に近いわりに煙はたいしたことはなかった。その後、数週間、風向きによって煙の影響はあってマスクをして歩いている人もいた。グラウンド・ゼロでは日数がたっても煙は細々と長く続いて完全に消えたのは11月中頃だった。

 

炭疽菌事件のテロ(炭疽菌が含まれた白い粉が郵便でいくつかのテレビ局、出版社、上院議員に送られて、郵便局員など5人の死亡者が出た事件)も9月と10月に起こった。WTCが倒壊したことはもう起こってしまったことだったが、炭疽菌事件は現状で起こっていることで、自分の身に降りかかるかもしれない脅威だった。ロックフェラーセンターのそばにあるNBCテレビ局の前なんてよく歩いていたので、どんなことで炭疽菌が降りかかってくるかわからないなと思った。ニューヨークの地下鉄は古くてかなり地面から浅い所を走っている。地下鉄のプラットフォームにある通気口は地面とつながっているので、そこから炭疽菌を振りかけられたら大惨事になると思った。地下鉄に乗る時は何があるかわからない。小さい懐中電灯とホイッスルをハンドバッグの中にいつも携帯することにした。

 

ブッシュ大統領のもと「不朽の自由作戦」としてアフガニスタンとの戦争が2001年10月7日から始まった。ニューヨークではもちろんのこと、たくさんの星条旗が米国の各地ではためいていた。そしてあれから20年、米軍が全面撤退し、2021年8月31日にバイデン大統領により戦争の終結が宣言された。

現在、WTCの跡地には911メモリアルミュージアムがある。ニューヨークの観光名所の一つになっているが、私も夫もまだ一度も行ったことがない。行ってもいいのだがなんとなく足が向かないというか。たぶん一生行かないかもしれない。複雑な気持ちのままだ。 


2021年11月号

 

SNS時代のネットいじめ

~眞子様は複雑性PTSDに~

 

宮内庁から秋篠宮家の長女眞子様と小室圭氏の結婚は10月26日と発表された。本当に良かった。三年間も会えずに離れ離れになって、眞子様も小室氏もとても辛かったことと思う。ようやく会えて、夫婦としてともにニューヨークに渡り新しい生活を始める。

 

2017年の春に婚約内定が報道されて、同年12月に小室氏の母親の「4百万円超の金銭トラブル」のことが週刊誌やワイドショーで取りざたされ、それに乗せられたのか一部の一般人がSNSで眞子様の結婚に関してバッシングをし始めた。2018年2月には宮内庁は結婚関係の儀式の2年延期を発表。2018年の夏には小室氏はニューヨークのマンハッタンにあるフォーダム大学のロースクールに留学した。そして2021年5月に卒業。ニューヨーク州の弁護士試験を受験し、合格が見込まれており、マンハッタンにある米国で中堅の弁護士事務所に就職を決めた。そして現在、東京に訪問中で眞子様との結婚及びニューヨークでの新生活の準備中だ。

 

一方、宮内庁は先日、眞子様が複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されたことも明らかにした。眞子様はここ数年の誹謗中傷にずっと心を痛めてきたのだ。確かにあれだけバッシングされ続けたら誰でも精神を病んでもおかしくない。なんとお気の毒なことか。

 

色々な考え方はあろうが、私は最初から小室氏の母親の問題は小室氏自身の問題ではないので、そんなに取りざたされる必要はなかろうにと思っていた。いくらそのお金が小室氏の学費に使われたとしても、それは母親が行ったことであり、小室氏自身は何も知らなかったのだ。相手方が返してほしいと主張しても借用証書もない。もし訴訟を起こしたら明らかに小室家が勝つケースだ。

 

小室氏は今年4月に28ページに及ぶ文書の中で、金銭トラブルと言われている事柄に関する事実関係について、当時小室家の弁護士のアドバイスもあり、お金を払うことは可能だが、借金でなかったものが借金であったことにされてしまう事態を受け入れることはできないと述べていた。法的思考の小室氏らしい考え方だと思う。

 

日本の少なからずの一般人の中には、皇室の一員である眞子様が嫁ぐ先としては家柄に問題ありと考える人もいるだろうが、結婚はそもそも個人の合意によって成立するものだ。眞子様が皇族であり続けるならともかく、眞子様は女性であり結婚すれば皇籍離脱で一般人になるということは現行の皇室典範で決められているルールなのだ。一般人になる眞子様がどんな人と結婚しようが構わないではないか。未熟な小娘ではなく、立派な大人の女性が本人の意思で決めたことなのだ。眞子様の結婚に反対してきた一部の日本の人はおせっかいすぎたと思う。実際、小室氏はこの三年間でしっかり成長して結果を出した。あれだけのバッシングを受けてもずっと耐えた打たれ強さもたいしたものだ。たくましい人物と思う。

 

もし、秋篠宮様が眞子様の結婚に対してバッシングが始まった初期にガンとした態度で「小室圭は小室圭だ。眞子は結婚させる。」と納采の儀と結婚をさっさと進めていれば、国民も皇室の言うことならとあきらめて、長年のこんなごたごたにはならなかったのではないかと思う。眞子様も2018年夏に小室氏と一緒にニューヨークに行けたはず。秋篠宮ご夫婦は国民の声(一部の酷い声)に耳を傾けすぎたと思う。SNSのない時代ならこんなことにはならなかったろうに。

 

そもそも秋篠宮ご夫妻は小室氏が米国のロースクールに進んで米国の弁護士資格を取得し、数年の実務経験を経たのちは日本に戻って「外国法事務弁護士」として働くということで、眞子様の結婚を認め、2017年の春に内定を発表したのだと思う。そうでなければパラリーガルでたいした年収が望めない人との結婚を許さなかったと思う。米国に娘が永久に行ってしまうのも受け入れられないから数年で戻るという計画だったと思う。

 

秋篠宮様は典型的な次男坊で若いころから堅苦しい皇室を好ましく思っておらず、自由を求める人で、髭の殿下と呼ばれた叔父の三笠宮寛仁殿下を慕っていた。三笠宮様は若い頃は自由を好む皇室からぬ行動をなさるお方で、深夜放送の「オールナイトニッポン」に出演したこともあった。私が印象に残っているのは、葉書の質問で「三笠宮様はお茶漬けを食べたことはありますか?」に対して「もちろん、ありますよ。」と答えていた。

 

秋篠宮様も若い頃は一般人のすることは同じように何でもやってみたいと好奇心旺盛でいくつかの武勇伝の噂を聞いたこともある。紀子様との結婚も兄の浩宮様(現在の天皇陛下)がまだ未婚なのに弟が先に結婚するなんてだめだと当時の皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)に反対されたが、「紀子との結婚を認めないなら皇室離脱する」と言い張ってようやく認められたという経緯があった。

 

眞子様も佳子様も小さい頃から秋篠宮様に「女で良かったね。結婚するまでの我慢だよ。結婚したら一般人になって自由になれるからね。結婚相手は自由恋愛で自分で見つけなさい。」と言われて育ってきたはずだ。眞子様はその通りにしただけで、何も悪くない。

 

それなのに小室氏と眞子様は執拗なバッシングを受けて、眞子様は複雑性PTSDに。国民の一部が意地悪すぎるからそんなことに。一部のマスコミも売らんかなでネガティブな意見ばかり掲載してバッシングを煽った罪は大きい。本当は眞子様の結婚に賛成の国民もそれなりにいたのに、そういう報道はされず、ツイッター等のSNSでも叩く声ばかり大きい人がいて、賛成の人はあまりつぶやかない。

 

五輪開催の時もそうだったが、ネガティブを煽った方が売れるので一部のマスコミは新型コロナの恐怖を過剰に煽って五輪を叩きまくって中止を言い張った。IOC会長のバッハ氏もえらく叩かれていたが、彼が言っていた通り五輪は無事に開催できたし間違ったことは言ってなかった。五輪選手までが嫌がらせをされて本当に気の毒だった。五輪は無事に終わって、感染拡大に関連は薄いと科学的分析結果も出されて、あのバッシングはいったい何だったのかという現状だ。

 

SNS時代のネットいじめは本当にひどい。2017年11月に日馬富士が引退に追い込まれたのも異常なバッシングを受けて日馬富士の心が折れてしまった要因が大きい。貴乃花親方の異常な行動と低俗なスポーツ新聞の誤報が、大相撲をあまりよく知らない一般人に誤解を招いた。大相撲を日頃からよく見て知っているコアなファンは日馬富士が引退する必要はないことは最初から分かっていて、私も含め必死でツイッターで日馬富士擁護を叫んでいたのだが。

 

誰か叩いてもよさそうな人を見つけて、それに乗っかって叩いて自分のストレスを発散させるタイプの人は酷い。まさに「ネットいじめ」だ。今後、ネットいじめ関連の法令が厳しくなるので、弁護士たちは頑張っていじめられている人を守ってほしい。

 

眞子様は皇籍離脱して一般人になるにあたって本来なら受け取れるはずの一時金(最高1億5千万円)を辞退なさった。しかし私はあとでほとぼりが冷めたらあの一時金を眞子様が受け取れるようにできないものかなと思う。せめて小室夫妻が将来日本に戻って生活することになったらその時に自宅を買う資金に使って頂きたい。

 

秋篠宮ご夫妻も上皇ご夫妻も眞子様の花嫁姿を見たいと思っているはず。私的にあとで日本帰省時にでもいいから親の前で結婚式をなさってほしいなあと思う。眞子様だってご自分の花嫁姿を夢見ていたはず。ひょっとしたらニューヨークでお二人で結婚式をなさるかもしれないが。

 

小室眞子さんはニューヨークで新しい生活をするにあたって、いろいろと慣れないこともあろうが、幸い在米日本人の間では歓迎ムードだ。どうぞ安心して新しい門出をスタートさせて頂きたいと思う。


2021年12月号

 

1990年の私

~NYでの生活が始まる~

 

先日、眞子様が結婚して小室眞子さんになった。そして小室夫妻はこれからNYのマンハッタンで新しい生活を始めることになった。小室圭氏は2018年からNYのロースクールに通い、今年の春に卒業し、NYの法律事務所での就職を決めた。彼はこの3年間でしっかり成長した。私なんかこの3年間で新しくできるようになったものもたいしてなく、あまり成長していないなあ、小室さんは立派だなあと思った。

 

ところで、数日前に私は不用品の整理をしていて、昔の思い出ボックスの中から私が1990年の夏に日本の数人の友人に送った暑中見舞いのカードに挟んだ一枚の印刷物が見つかった。それを読んで「おおお、1990年の私はこうだったのか!よく考えたら私も短期間で大きく成長したことあったんだ!」と感慨深く思った。これはみんなにシェアしたほうがいいかなと思ってそのままを以下に書く。

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「お元気ですか。アメリカに来て二年になりました。日本でくすぶっていた私のエネルギーはアメリカで爆発しました。私は今まで長い間社会学を研究して、長く日本の大学院にいましたが、アメリカに来ていろいろな意味で大変刺激を受け、ビジネスの世界に魅せられるようになりました。この2年間ペンシルバニアにある大学でリサーチ・アソシエイトとして自分の自主研究と日本語を教えることをしていましたが、そのかたわら、実はビジネス、特にアカウンティングを勉強していました。日本で経済学や経営学など勉強したことがなかったのですが、アメリカの大学での徹底した実学教育のおかげで、短期間にかなりわかるようになりました。勉強はとても大変でしたけど。

 

そしてこのたび、運よくNYでとても良い就職がみつかり、9月からKPMG Peat Marwickという大手のアカウンティング・ファーム(監査法人)で働くことになりました。主な業務内容は会計監査、国際税務、経営コンサルティングなどです。NYは何といっても世界のマネーがダイナミックに動く中心地ですから、とても良い経験が積めると思います。

 

私はかつて「高層ビルの谷間をブリーフケースを持ってかっ歩する自分」という自己イメージを理想としていました。しかし、まだ日本経済が不況から立ち直れなかった十年前、大学卒業後初めて就職した日本の会社にたいへん失望し、民間企業になど二度と行くものかと恨んでいました。そして大学へ戻り、在学中から興味のあった社会学の研究生活に生きがいを見いだし、もうこれしかないと思って大学院に入り、研究者になるつもりでいました。

 

しかし、アメリカに来て、日本とは全く違う開かれた社会で、すっかり気持ちが変わりました。日本ではなにかにつけ、あきらめなければならないことが多くありましたが、ここではなにもあきらめることはないみたいです。アメリカは本当にあきらめない社会です。不都合なことがあればどんどん改善していこうという前向きの社会で、それがアメリカ社会の強さの源のように思います。もともと祖国でおさまりきらなかった人たちが移民してできた国ですから、何か通じるものがあります。

 

特にキャリア志向の女性にとってアメリカは天国です。日本は20年は遅れているのではないでしょうか。私はもう20年も待てません。社会学は今でも好きですし、未練はありますが、このたびの就職はまたとない、たいへん良いチャンスなので思い切ってNYでキャリアウーマンすることにしました。

 

思えば誘われるようにしてアメリカに渡り、吸い込まれるようにNYへ。あの高層ビルがなんとマンハッタンの摩天楼だったとは。私はたいへんエキサイトしています。そしてこんなことができた自分にとても驚いています。私は人生に変化を求めるタイプですが、この先いったいどうなるんでしょうね。そんなわけで、私のアメリカ生活がますますおもしろくなってきました。何といっても私みたいな人がたくさんいるんですもの、生きやすい。それでは、また。良い夏をお過ごしください。」

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1990年、私は32才だった。30才前後というのは人生の中で短期間で大きく成長する機会がある時期なのかなと思う。1988年にペンシルバニアの大学に2年間の予定で留学した。それが、二年後の夏にはNYマンハッタンに引っ越し、9月から仕事が始まった。会社がH-1ビザという専門職用のビザのスポンサーをしてくれた。限られた人にしかスポンサーをしてくれないので当時でも就労ビザを取得するのは難しかった。NYの生活はなにもかもが新鮮できらきらしていた。大学進学で地方から出てきて東京に住むようになった時の感覚と似ている。

 

当時、男女平等に関しては日本は20年遅れていると思ったのは、日本の状況は米国の1970年ごろの感じだなと思ったからだ。現在2021年、日本は米国より40年位遅れている感じだなと思う。日本の現在の状況は米国の1980年ごろの感じだ。1990年の米国では、すでに女性が当たり前のように働き、男女平等がかなり達成された社会があった。あんなにフェミニズムに凝っていた私がフェミニズムに興味をなくすほどだった。不満に思うことが少なかったのだ。時間がたったのに日本は進み方が遅い。

 

 「この先いったいどうなるんでしょうね。」と自分のことを思っていた私は、あれから山あり谷ありいろいろあった。今はハーフリタイアでフロリダにいる。30年前はまさか将来自分がフロリダで生活するようになるとは夢にも思っていなかった。

 

これからの若い人たち、まだまだ先が長い。人間は工場で作られた製品ではない。みんな違ってみんないい。ありのままの自分をまず受け入れて、生まれながらに配られたもち札で、前進あるのみだ。エールを送る!


2022年1月号

 

2021年この一年を振り返って

 

もう12月になってしまった。昨年は新型コロナ禍でNYロックフェラーセンターの巨大なクリスマスツリーの点灯式イベントは無観客でとても地味に行われたが、今年は観客を入れて例年通りに華やかに行われた。テレビではもう元通りに戻ったかのような賑わいが映っていた。しかしNYの友人の話では、通勤はまだ半分も戻っておらず、在宅勤務を続けている人が多いそうだ。以前のNYとは変わってしまったと言っていた。2019年から私はNYに行っていないので感覚的によくわからないが。

 

2021年1月から米国では新型コロナワクチン接種が始まって、医療従事者、介護施設職員、65歳以上の高齢者、基礎疾患のある人、学校教員、軍隊、警察、消防、その他の社会で不可欠な業務従事者たちがまず優先的に接種となった。2月はものすごく混んでいて予約がとれず、夫と私がファイザーの第一回目の接種ができたのは3月18日だった。ちなみに二回目は4月8日、三回目は10月28日に済ませた。

 

新型コロナワクチン接種の出現で社会の雰囲気が大きく変わった。効果が高い。7月4日の米国独立記念日の頃にはもう新型コロナ禍は終わった、もうマスクはいらないという感じになった。しかしその後、デルタ株が出てきてまたマスクが必要になった。屋外ではマスクをする必要はなくなったが、スーパー、レストラン、屋内の様々な店などでは場所によって強制ではないがマスク着用を求められる。

 

6月24日にはマイアミのノースビーチ沿いにあるリゾートコンドミニアムが夜中に突然倒壊するという大きな事故が起こった。98人が死亡し、11人が負傷という大惨事だった。あの近くのホテルに夫と私は泊ったことがあって、地理的にだいたいわかる所なので驚いた。マイアミの有名なサウスビーチの喧噪はなく、落ち着いた静かなビーチが続くエリアで良い住環境だ。結局、原因は建物下部の補修工事の必要性が数年前から指摘されていたのに、コンドミニアムの委員会が予想以上の補修になるため積立金不足で補修が行われていなかったためではないかと言われている。今も裁判中なのではっきりした原因は不明だが。

 

7月23日には東京五輪が開催された。日本国内のメディアでさんざん中止が叫ばれ、医者たちもこんな時に開催するなんてと発言し、一般の人たちは不安をあおられまくっていたが、ふたを開けてみればIOCの言う通りバブル方式は機能しており、大したことは何も起こらなかった。たまたま同時期にデルタ株がどんどん感染拡大していたが、五輪開催との関連は薄いという分析結果が出された。

 

一部の医者が「五輪のためにベッド数がとられていて新型コロナ患者が入院するベッドが足りない、今からでも即中止せよ。」と開催中に叫んでいたが、あれは全くの誤解だった。実際には一部の病院が新型コロナ患者のための病床数ということで行政に申請し、実際には医者や看護師が足りないので患者を受け入れず、空っぽにしていたままで行政から補助金だけをもらっていたということが発覚した。一般的に医者たちは職業柄仕方ないのだろうが目の前の病気のことしか考えておらず、悪いけど社会全体のことをバランスよく考えるという思考が足りないようだ。

 

10月26日には秋篠宮家の眞子様が結婚し、小室眞子さんになった。そして小室夫妻は11月14日にNYに到着した。これまた数年間に及ぶ日本国内の不可解なネガティブ・キャンペーンのせいで、さんざん小室圭さんと眞子さんは叩かれまくって気の毒だった。眞子さんはお好きな方と結婚し、念願の一般人になり、ついにNY生活が始まって本当に良かった。

 

彼らが住むマンハッタンの賃貸アパートは安全な地域にあるセキュリティーのよいビルで、1LDKでたぶん70平米くらいだろうと思う。子供のいない日本人駐在員夫婦が住むような典型的な賃貸アパートだ。小室氏は来年二月のNY州弁護士試験には合格するだろうし、眞子さんも就労ビザが準備でき次第、美術館等で働く予定らしい。二人で力を合わせてなんとかなるだろうと思う。眞子さんは貯金が一億円くらいあると聞くので、当面はそれでまかなえる。日本の世間では「眞子さんの貯金を使わせるなんて」と否定的に言う人もいるようだが、今時は男女平等だ。妻が経済的に力を合わせて何が悪いのだろう。夫が妻を養うべきという古臭い考えはもう捨てよう。令和の時代なのだから。

 

12月に入ってすっかり年末ムードだ。我が家でも今日12月4日にクリスマスツリーを飾った。去年はどこの家庭でもクリスマスパーティーで親戚が集まったり、友達が集まったりできず、ひっそりとしたさびしいクリスマスだったが、今年は違う。久々に遠方の親や親せきに会いに行くという人が多い。我が家では夫の娘夫婦がクリスマス当日に夫が作る恒例のクリスマスディナーに来る。夫はロブスターとローストビーフを予定している。

 

最近、感染力の強いオミクロン株が話題になっている。症状は軽い場合が多いとか、ワクチン接種済みの人はそれなりに効果があるようだとか聞くが、まだわからないことが多い。非科学的に過剰に心配しすぎるのは良くないが、警戒は必要だ。私は2019年から日本帰省ができていない。日本への入国が困難なのだ。成田空港から車で家に帰れる人はいいだろうが、新幹線や飛行機など公共交通機関を使ってはいけないので、地方出身の人は14日間も成田空港周辺のホテルに留め置かれたままになるので、それだけで休暇が終わってしまう。2022年は早く元通りの社会に戻ってほしい。


2022年2月号

 

2022新年の決意

 

新年になって、今年は体重を何キロ減らそうとか禁煙しようとか、新年の決意や目標を考えている人もいるだろう。英語でそれを”New Year’s Resolution(ニューイヤーズ・レゾルーション)と言う。”Do you have any New Year’s Resolutions?” “What is your New Year’s Resolutions?”とか聞かれて話題になったりする。

 

さて、私は今年はどうしようかと思った。特に思いつかない。私はこれまで毎年去年できなかったことで今年できるようになることが一つでもあるようにと、何かを頑張ることにしていた。私は今63才だ。21世紀に入ってからもう20年が過ぎた。20年という年月はこのくらいの時間なのだ。あと20年くらいで死ぬかもしれないわけで、いろいろ考えてしまう。

 

私は中学生の頃から20年先を考えていつも生きてきた。20年後にはこうありたいから今はこうしようと。たぶんそういう人は多くはない。社会の行方を予想して人より早く行動する私は同時代の周りの人には理解されないことが多く、ずいぶん変人扱いされてきたと思う。しかし、私は自分の考えに自信があったのでひるまず前に進んだ。周りの人と同じことをしていては凡人になるだけだ。人にどう思われようと気にならない鈍感力もあった。

 

それが20年先に自分が生きているかどうか微妙な年齢になってくると、20年後にこうありたいというイメージするのが難しい。平均寿命は日本人の男性は81才位、女性は87歳位だから、平均ならまだ生きているはずだ。しかし健康寿命(介護を必要とせず自立して生活を送れる期間)は日本の男性は72才位、女性は75才位でもっと短い。

 

ゼロ歳児がどのくらい生きるかという平均寿命ではなく、特定の年齢の人があとどのくらい生きるのかという平均余命で見れば、例えば70歳の日本男性は平均であと15年、女性はあと19年半生きるらしい。しかしただ生きていればいいというものではない。健康な状態ではなく、つらい状態で長く生きるのは苦痛だろう。もし自分が健康状態が悪い場合はどうやって自分の命を終わらせるのが良いかいろいろ考えさせられる。終末期の尊厳死は日本である程度すすんできているが、日本では安楽死(主治医が薬物を用いて死に至らしめること)は認められていない。世界でも今のところは数えるほどだ。

 

テレビでは90才でも体がピンピンで頭もしっかりした高齢者が出てきたりするので、その位まで元気でいられるのではないかとなんとなくぼんやり思っている比較的若い人もいるかもしれないが、あれは珍しいからテレビに出てくるのだ。私が年賀状やクリスマスカードを長年交換してきた親しい友達20人のうち、3人はもう死んでしまった。一人は39歳で卵巣がんで。一人は54歳で肺がんで。一人は60歳で脳腫瘍で。平均寿命よりずいぶん長く生きる人もいる一方で、平均寿命まで生きられない人も当然それなりにいるのだ。

 

だから私が20年後はこうありたいというのは、介護が必要なく自立した生活ができているように、そして認知症になっていないようにということだ。とにかく健康管理を頑張るということが最重要と思う。それで私はとりあえず今年の目標としては、ジム通いを続ける。今の体重をキープする。新型コロナ禍が終わったらバイオリンのレッスンを再開する。今年はそれくらいでいいかなと思った。

 

私は今まで自分のことで何かを成し遂げることばかり考えてきた。死ぬまでにやり残したことがないように、やりたいことをできるだけやろうと思っていた。しかし、今年はちょっと違う。自分のことは今までさんざんやってきたから、今年は人のために自分の時間をもっと使おうと思う。これは本当に私は少なかったから。

 

考えたら普通に結婚して子供のいる日本の女性は自分の時間を自分のためになかなか使えない状況が多かったのだろうなと思う。仕事をするのに独身であることは男女ともに有利だ。家庭のことを考えずに好きなように働ける。私は独身時代が長かったし、子供がいないから自分の時間はほぼ100%自分のために使えた。44才で結婚後は家政婦が掃除や洗濯をしてくれたし、夫は夕食作りがストレス解消になると言って毎晩夕食を作ってくれるので、家事から解放されていた。私は自分の成長や達成にエネルギーを注げた。今年は自分のことはもういいからもっと人のために自分の時間を使おうと思うに至った。

 

夫は67歳だが循環器系の疾患があり体力が落ちてしまって、歩くのが難しくなり現在は歩行器が必要だ。車の運転は一年半前からもう全くしておらず、私が100%車の運転をしている。夫はたとえば転倒して一旦お尻が床についてしまうと一人では起き上がることはできない。大人は大きいから子供のようにひょいと持ち上げることは困難だ。転倒した夫をソファーに座らせるのにああでもないこうでもないと必死でいろいろやって持ち上げてようやく座らせるのに30分もかかる。しかし歩行器があれば歩けるので今のところ毎晩のように夕食を作ってくれる。本当にありがたい。夕食作りをすることで体を動かすから本人のためにもなっている。夫の介護をもっとどんどんやろうと思う。

 

日本にいる高齢の母のことも心配だ。新型コロナ禍で2019年の11月から日本帰省ができていない。寂しい思いをさせてしまってつらい。日本入国後14日間の自粛期間がなくならないことには日本帰省が無理なのだ。東京近辺在住の人は成田空港や羽田空港から公共交通機関を使わず車で自宅に帰ることができるからいいだろうが、私の実家は地方なので飛行機も新幹線も使わずに行くことは困難だ。レンタカーでそんな長距離を運転する自信はない。そもそもああいう状態の夫をフロリダで長い間一人にしておくのは心配だ。日本帰省と言っても日本にせいぜい12泊位しかできない。フロリダから東京は直行便がなく途中で乗り換えがあるのでその都合で米国内で一泊必要になることが多い。時差の関係もあり日本で12泊するとフロリダの家を空けるのは14日間くらいになる。だから成田空港近辺のホテルに14泊も留め置かれたらそれだけで休暇は終わってしまうのだ。

 

夫や親のことだけではなく人のために時間を使うためにも、新型コロナ禍はなんとしても早く終わってほしい。


2022年3月号

 

北京冬季五輪開会式

 

昨夜、米国NBCテレビで金曜のゴールデンタイムに北京冬季五輪開会式を録画放映で見た。生中継は時差の関係で早朝だったので夜型人間の私にはつらいので生では見なかった。北京五輪開会式はテクノロジーを駆使し、統一感があって美しくとても素晴らしかった。

 

東京五輪の時は、東京五輪開催反対派がいろいろとケチをつけて横やりが入ったため、開会式はオリジナルの計画通りにはできず「衆愚政治」の感ありだった。しかし、ピクトグラムや東京音頭などは人間味があって暖かさがあって、あれはあれで良かったと思う。そういう意味では北京五輪の開会式はなんだか人工的で少し冷たい感じがした。

 

北京五輪開会式で選手団の入場行進時の音楽は有名なクラシック音楽の数々が連なったもので、品が良くて私はとても良いと思った。ウィリアムテル序曲で始まり、威風堂々、日本選手団の時はチャイコフスキーのバレエ音楽のくるみ割り人形だった。NBCの解説は羽生結弦はスーパースターでフィギュアスケート男子で三大会連続の金メダル獲得を成し遂げるかが期待されると紹介していた。そしてオペラのアイーダから凱旋行進曲、オペラの椿姫から乾杯の歌、トルコ行進曲などが続き、スケーターズ・ワルツまででて、まさか行進でワルツとはと思った。

 

ハンガリー選手団入場の時はハンガリー舞曲が流れて、あれは奇跡的にタイミングがぴったりだった。各国の行進の順序がどうなるかBGMが決められた時にはたぶん考慮されなかったと思うし、どのくらいの時間で行進が進むか、ずれることが多いので意図的にではなかったと思う。

 

ウクライナ選手団が入場する直前にテレビカメラがロシアのプーチン大統領を映した時、プーチンは寝ていたように見えた。私はこの時のBGMはオペラのトゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」だったらよかったのにと思った。「誰も寝てはならぬ」は2006年トリノ五輪で荒川静香が金メダルをとった時に使用した、あの名曲だ。

 

ちなみに、ツイッターでこのクラシック音楽を使った入場行進について日本人の反応をみたら、日本人のクラシック音楽教育のレベルの高さを再確認した。多くの人がなじみのある名曲ばかりと認識していた。たしかに中学までの義務教育の音楽の授業で聞いたことのあるクラシックの名曲ばかりだから日本人には聞き覚えがある。しかし、世界ではこれらの曲を聞いたことがない人は結構多い。少なくとも米国人はこれらのクラシックの名曲になじみがあった人は半分以下だろうと思う。

 

米国選手団の女性騎手はフロリダ州出身のスピードスケートの選手、ブリタニー・ボウで33才。彼女はもともとインライン・スケート(ローラーが縦に4つ並んだスケート靴で滑る陸上のスケート)の選手で、2010年にアイススケートに転向。それで2014年にはパシュート(複数名の選手がチームになって連なって滑るスピードスケート競技)で冬季五輪に出場し、2018年もパシュートで出場、今回は3回目の五輪で個人のスピードスケートで出場だ。彼女は1000Mのスピードスケートで2019年に世界新記録を出した大物だ。

 

実は、米国選手団の女性騎手は本来決まっていた選手が北京到着後に新型コロナ陽性になって隔離になり、急に彼女が旗手に選ばれた。本来旗手を務めるはずだった女子選手はボブスレーのパイロットを務める選手だ。無症状で、感染対策の規定条件を満たす陰性結果を二回出せば13日からの競技には出場可能だそうだが、ボブスレーの日程を見るとそれは難しいかもしれない。

 

彼女だけではなく、新型コロナ陽性が判明し北京五輪に出場できなくなっている選手はかなりいる。スキージャンプ女子の金メダル候補であるオーストリアの選手クラマーは今回の五輪は欠場している。スキージャンプは屋外の個人競技だし、他者とほとんど接触しないのだし、当日無症状なら陽性でも出場させてあげたらいいのにと思った。四年に一度のこの日のために長い間つらい訓練に耐えてきたアスリートが、新型コロナ陽性ということで出場できないのは本当に気の毒に思う。残念だがルールだからしかたない。

 

開会式を見終えて私は思った。中国は大きく変わったなあと。中国(中華人民共和国)はずっと長い間五輪には参加できていなかった。それが1980年のレイクプラシッド冬季五輪に初めて出場し、1984年のロサンゼルス夏季五輪以降ずっと参加している。70年代は中華民国(台湾)と中華人民共和国の「二つの中国」は同じ場に共存できなかったのだ。だから私の世代の人にとっては中国が五輪に参加していること自体が大きな変化だったし、それが今や、夏季五輪とこうして冬季五輪の開催国になるとは隔世の感がある。

 

ちなみに70年代は中華人民共和国と中華民国は席を同じうせずが徹底していた。台湾の中華航空は国際線を集中させた成田国際空港が開港した1978年以降も成田に移らず、当分のあいだ羽田空港に居続けた。国内線オンリーだった羽田空港から出る唯一の国際便でハワイやロサンゼルスなどに行くのに近くて便利と言われて一定の人気があった。

 

中国は1966年から1976年まで続いた文化大革命の嵐で五輪どころではなかった。文化大革命では反革命分子とみなされた民衆がつるし上げられ、粛清や虐殺も行われ、推定死亡者数は数十万人から二千万人に及ぶとされている。中国国内の伝統文化の破壊や学術活動の停滞がもたらされた。日本は田中角栄首相の時代の1972年日中国交正常化まで中国と国交がなかった。中国残留孤児たちが日本に少しずつ日本に戻ってこられたのも1981年からだ。当時の中国はとても貧しかった。それが今やこうして立派に五輪の開催国を務めている。民主化路線を取り入れたおかげでものすごいスピードで経済発展を遂げた。

 

ところで、冬季五輪で米国で人気の種目はフィギュアスケート、滑降、スーパーG(スーパー大回転)、スノーボード、アイスホッケーなどだ。日本では滑降やスーパーGは日本の選手がいないのでほとんどテレビ中継がないようだが、アルペンスキーの醍醐味はやはりすごいスピードでダウンヒルを滑り降りるこれらの高速系種目だ。滑降やスーパーGは体が大きめの選手が有利で、日本の選手は体型的に向かないのかもしれない。体が小さくても不利にならないスラロームと呼ばれる小さい回転の技術系のスキー競技なら日本の選手はいる。モーグルも技術系種目で日本の選手は有力だ。スキージャンプも体が大きすぎない方が有利なようで日本の選手は伝統的に強い。

 

フィギュアスケートは断トツの人気で確実に視聴率が取れる。米国人が大好きなアメリカン・フットボールのスーパーボウルのイベントは例年2月初め頃に行われるが、今回は日程が2月13日日曜日で例年より遅い。北京五輪開催期間のちょうど中日にあたるその頃ならよかろうと日程を調整したのかと思う。

 

北京冬季五輪はこれから競技がどんどん進んでいく。日本の選手も米国の選手もがんばれ!世界の選手が日ごろの力を発揮できますように。


2022年4月号

 

ウクライナ紛争~現代版の「プラハの春」~

 

状況は刻々かわるので、この原稿は3月5日現在に書いたものであることをまずおことわりしたい。2月24日に始まったロシアのウクライナへの侵攻。米国ではウクライナ側に立って反ロシアキャンペーン一色で、ほぼ一方的な情報しか流れていない。日本は米国と同盟関係にあるのでおおむね同じようにウクライナ側に立った情報ばかりが報道されているようだ。たしかにロシアの武力による侵攻は許されるものではない。

 

米国の子供が「喧嘩の時は両方の言い分を聞いて仲直りしましょうと大人に言われるのに、なぜウクライナばかり応援するの?ロシアがかわいそう。」と言ったと母親がツイッターでつぶやいていた。私はウクライナ紛争の初期の頃から、あまりにも一方的な情報ばかりが米国や日本で流れているのを見て、それは良くないと思った。私は別にロシアの味方というわけではなく、あくまで中立の立場で客観的に物事を分析して考えるほうが良いと思うので、ツイッターで連日、日本で足りないと思われる情報を日本語でつぶやいていた。

 

そこで気が付いたのは、現在の人口の半数くらいの人たちはソ連という国のことをよく知らないのだなということだ。ソ連の崩壊は1991年だから、その時中学一年だった人は現在43才か44才だ。それより若い人たちはソ連崩壊後の世界地図しか頭にないようで、ソ連の国境がどうだったか知らない人が多い。そういう人たちにとってはウクライナはハンガリーやブルガリアなど(ソ連の衛星国ではあったが外国)と同等に考えているようだ。それはまあ無理もないことだが。

 

現在はそれぞれ独立国家であるアルメニア、アゼルバイジャン、ベラルーシ、ジョージア、カザフスタン、キルギスタン、モルダビア、タジキスタン、トゥルクメニスタン、ウズベキスタン、エストニア、ラトビア、リトアニア、ウクライナ、ロシアはソビエト連邦を構成していた同胞国で、これらで一つのソ連だったのだ。わかりやすく言えば、ソ連は合衆国のようなもので、それぞれのこれらの共和国は「州」のようなものだったのだ。その中で最大の領域と経済力及び軍事力を持つのがロシアでソ連の継承的なリーダー国なわけだ。ソ連時代はロシアとウクライナは仲は良く、地理の教科書にはウクライナはソ連の穀倉地帯と書かれていた。

 

知る人ぞ知る1968年の「プラハの春(チェコ事件)」はごく簡単に言えば、自由化を望んだチェコスロバキアのプラハにソ連が軍事侵攻して制圧した事件。時のソ連のトップ(共産党書記長)はウクライナ人のブレジネフだった。「一国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、他の社会主義国は無関心ではいられず、全体の利益を守ることに一国の主権は乗越えられる」という「ブレジネフ・ドクトリン」を唱えた。終結後、チェコスロバキアがソ連領になることはなく、虐殺もなかった。ソ連が崩壊するまでソ連の衛星国ではあったが。

 

ソ連・ロシア通の人ほど今回の件でプーチン大統領が何を考えているのかよく理解している。元外交官の佐藤優氏は「プーチン大統領の目的はウクライナに傀儡政権を樹立することではない。完全な傀儡政権ではウクライナ人に支持されないのをプーチンは歴史から学んでいる。今回の侵攻の目的は、一つ目はウクライナ東部のロシア系住民の保護。二つ目はウクライナをNATO諸国との間の緩衝国にしたいということ。三つめはゼレンスキー政権を倒してロシアと融和的な政権に移行させたいということ。「プラハの春」以降、大国にいつまでも歯向かっても勝ち目はない、ならば現実的な方法で調整し、安定的な国家運営をする人物を探し出すというのがソ連以来のやり方だ。」と(3月3日プレジデントオンライン)。

 

東京外大教授の伊勢崎賢治氏は「2001年の米国のアフガニスタン侵攻や2003年のイラク侵攻の時はNATOや米国への批判は一般にはあまりなかった。米国やNATOを中心とする欧州は「善」、旧ソ連だったロシアは「悪」、プーチン大統領による侵略戦争だという雰囲気でメディアが報じているが、戦争はそういうものではない。国連憲章では武力行使の禁止の例外があってそれは個別あるいは集団的自衛権の行使の時だ。歴史を振り返れば集団的自衛権はずいぶんむちゃくちゃな主張で大国に利用されてきた。」(3月5日毎日新聞オンライン)

 

神奈川大学副学長で哲学者で経済学者の的場昭弘氏は「ローマ帝国崩壊後、北方から侵入したルーシ族が創設したキエフ大公国までさかのぼればロシア人の起源はウクライナと言えないこともない。キエフ大公国はモンゴルに潰され、それを奪還したのがロシアだ。ウクライナはロシア本体の辺境である小ロシア。ソ連の崩壊でソ連の共和国が独立していく。その中にウクライナがあった。ロシアはこれらの地域がNATOに入らないという条件付きで独立を認めた。ウクライナがNATOに入るとロシアはNATOに包囲されることになる。」(2月25日東洋経済オンライン)

 

私は、プーチン氏が考えているのはソ連時代のような強いロシアの復活だと思う。ソ連崩壊後、米ソの冷戦体制はなくなり、中国と北朝鮮が米国の仮想敵国になった。ロシアは経済的にもぱっとせず、国際影響力も小さくなり、ロシアという国の存在感が薄れた。しかし、今回のウクライナ紛争でたとえ悪い意味であってもロシアの国際的な存在感は大いに高まった。ウクライナという長年の付き合いのある弟的な国にNATO側に行ってほしくない、兄の言うことを聞いてほしいのだ。ウクライナという国をなくしてロシアの領土にしたいわけではない。

 

今回のウクライナ紛争では、米国はロシアは国際法違反で暴挙だと言いまくっている。国際法違反なのは正しいが、大国は小国に対してそういうことをすることがあるというのを私は理解している。米国は2003年にブッシュ・ドクトリン(テロリスト及び大量破壊兵器を拡散させかねない「ならず者国家」に対し、必要に応じて先制的自衛権を行い得るというもの)で、イラクは大量破壊兵器を隠し持っているとして、国連の支持を得ないまま、イラク戦争を始めた。イラクは大量破壊兵器を隠し持ってはいなかったが、米国は長年の宿敵フセイン大統領を捕らえて死刑執行した。ツイッターである人がこうつぶやいていた。「米国がこれまでの歴史を棚に上げて正論をぶち上げて、まるで国際社会における正義の味方であるかのように映し出されることに強烈な違和感を感じる。」と。

 

ウクライナがロシアに攻撃されて、ツイッター上では「いかなる理由があろうと先に攻撃した方が悪い、話し合いをもっとすべきだった」とかナイーブなことをつぶやく人もいた。話し合いで決着がつくならこの世で戦争は起こらない。人間の歴史は戦争の歴史でもある。現在の国境が地球上で永遠に固定して続くわけではない。最後の手段として、そうするしかなかったというのはプーチン氏も言っていたが、実際ロシア側としてはそう考えたのだろうと思う。太平洋戦争で真珠湾を先制攻撃したのは日本だった。当時の日本としてはABCD包囲網でエネルギー供給が断たれ、短期決戦で東南アジアへの進出を有利に進めるため、そうするしかなかったということだったのだろう。

 

ウクライナの大統領ゼレンスキー氏に対して米国は亡命を勧めて逃げ道を用意したのに、彼は「私が欲しいのは出口ではなく武器だ」と言って断り、民間人の男性を出国禁止にして最後まで戦えとした。まるで太平洋戦争での大日本帝国の軍部のトップのようで狂気を感じる。ゼレンスキー氏は世界情勢を読み間違えた。米国も欧州もウクライナには派兵はしないと最初から言っていた。その時点でロシアに軍事的に勝てる見込みはないのだから、欧米にロシアとの交渉の支援を依頼して少しでも良い条件を引き出し、一刻も早く和平を結びウクライナ人の安全を優先するのが良いリーダーだと私は思う。

 

ゼレンスキー氏はロシアからの空爆を避けるためにウクライナ上空の飛行禁止をNATOに要請したが、NATO側がそれを断ったのでNATOを批判した。NATOとしては飛行禁止などしたら第三次世界大戦につながりかねないので断ったのだ。ゼレンスキー氏は第三次世界大戦が勃発してもいいと考えており、彼は危険すぎる。欧米はウクライナにそこまでする気はない。それは当然のことだ。

 

米国はトランプ大統領の頃からアメリカ・ファーストで、もはや「世界の警察の役割」はしないということに米国民の合意がある。バイデン大統領は有権者が望んでいないのにウクライナに派兵するわけにはいかない。ウクライナとロシアの関係悪化は予想されたことだった。北京冬季五輪中も米国はフィギュアスケートで見られたように反ロシアキャンペーンをしていた。米国は今回のウクライナ紛争は最初から反ロシアキャンペーンに使うつもりだったと思う。派兵は絶対しない、経済制裁と国際世論へ訴えるプロパガンダでロシアと対抗するということだろう。今年は米国で中間選挙がある年なのでそれを見越してのことだ。

 

私は個人のことでは、長いものには巻かれず自分の意思を貫くタイプだ。しかし、国家の争いのことでは長いものに巻かれた方がいいと考えるタイプだ。しかし、ツイッターを見ると多くの日本の人は私と真逆の人が多いようだ。日ごろは空気を読んで波風立てないようにする人が多いのに、ウクライナの今回のことでは、特に若い人たち(多くは男性だが女性も)の「民間人でも国を守るためには最後まで戦うのは当然だ」という意見がかなり多かったのだ。ということは、日本の若者は日本がいざというときには民間人であっても最後まで戦うつもりがあるということだろう。私は日本の若い人たちは平和ボケですぐ逃げ出すような人ばかりだと聞いていたので、これには意外だった。そう思ってくれる日本の若者がいるとはとても頼もしくありがたいことだなと素直に正直に思った。

 

しかし、大日本帝国時代のことを思えば、勝ち目がないことはわかっていたのに民間人を巻き込んで最後まで戦わせた日本軍部は狂気だった。もっと早く降伏していれば東京大空襲、沖縄、広島、長崎及び日本各地での爆撃による大惨事は起こらなかったはずだ。広島平和記念公園の慰霊碑の言葉を思い出してほしい。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」。命あってこそだ。いろいろあるのはわかるが、とにかくウクライナ紛争は一刻も早い終結を望む。


2022年5月号

 

北方領土返還~デメリットの方が大きい可能性~

 

「北方領土はもう日本に返還してくれないほうが良い。返還されても実はメリットよりデメリットの方が大きい。」という論がある。私はこういう論を見て、「ああ、私と同じように考えている人もいるのだなあ。」と興味深く思った。

 

日本政府は毎年の行事のように「北方領土の返還」を政策案件としている。現在は2022年だから1945年から76年半も経っている。北方領土は日本の固有の領土かもしれない。しかし戦争で負けてソ連に北方四島は奪われた。敗戦したのだからそもそも領土の一部が奪われても別におかしいことではない。沖縄は米国の統治下にあったが1960年に日米安保条約も結ばれ沖縄に巨大な米軍基地も維持され安定したため1972年に日本に返還された。

 

一方、北方領土は戦後ずっと返還されないままだ。ロシア(ソ連時代はソ連)にとっては、返還すると日本の同盟国の米国がそこに軍事基地を作るかもしれないという大きな懸念がある。実際、択捉(エトロフ島)と国後(くなしり)島にはロシアの軍事基地がソ連時代から存在している。

 

現在北方領土にはロシア人が約18000人居住している。あんな僻地に住みたがるロシア人は少ないので、ロシア政府はかなりの補助金を出して住んでもらっているという経緯もあった。ロシアにとっては経済的にはそこをキープするメリットは少ないのだが、そこを失うと軍事上の問題が大きなデメリットとなるので日本にはずっと返還することはなかった。

 

ネットでみつけた松下政経塾の塾生レポート、籠山裕二(卒塾生)「北方領土問題と外国人受け入れについて」2000年1月 には概ね以下のようなことが書かれていた。

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北方領土はあきらめた方が日本の国益になる。異民族を抱えることになる場合はマイナスになることが多い。北方領土返還の最大のメリットは北方領土海域における豊富な漁業資源だ。この他には領土拡大という精神的な満足感であろう。返還された場合の最大のデメリットはそこに居住しているロシア人をそのまま受け入れることだ。生活保護や日本語教育にかかる費用。日本国籍を取得した場合、彼らがよりよい生活を求めて日本本土に移住すること。治安問題。ロシア政府が返還を認めた場合、現状をはるかに超える経済援助を求めてくること。ますます日本は財政赤字を拡大させることになる。結論としては北方領土をあきらめる代わりに北方領土内における漁業権を獲得するというのが最善である。

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北方領土が日本に返還になった場合、そこにすでに居住しているロシア人がロシア領内の他の場所に転居を希望する場合は日本がその補償をすることになるだろう。新しい住居の購入、転居費用、新しい仕事を得るまでの生活保障、出ていくことになる慰謝料的なものもあろうし。

 

北方領土に日本居住の外国人として住み続ける場合は、日本の永住権、希望者には日本国籍も与えることに。当然、日本の健康保険、介護保険、雇用保険、公的年金、生活保護などさまざまな福祉が享受される。

 

そもそも北方領土が日本に返還されても、あんな辺境の地に住みたがる日本人はいるのだろうか。旅行関係者くらいのものではないのか。インフラ整備や国土保全にかかる毎年の費用はかなりの額になるはずだ。北海道は都道府県の中で経済的に豊かというわけではない。長年にわたり北海道開発に多大な資金が注がれてきた。北海道開発庁が2001年1月まで存在し、その後は国土交通省北海道局となっている。それでも人口減少と高齢化で北海道には限界集落が散在しており、行政としてはできるだけ便利な地域に移住して集約的に居住してほしいというのが本音だ。

 

竹島や尖閣諸島のように無人島なら、領土の海域の権利にこだわることには意味があると思うが、北方領土は約18000人のロシア人が居住しているので、問題は単純ではない。

北方領土の海域にエネルギー資源が眠っているかもということも言われてはいるが、そもそも化石燃料を徐々に減らしていこうという現代社会で、そういう開発プロジェクトに将来的に莫大な資金を注ぐことに意味はあるのだろうか。

 

安倍晋三元首相は北方領土返還に力を注ぎ、2016年の会談で日本がロシアに3000億円規模の経済協力を行うことで合意。北方領土での共同経済活動も視野に入っていた。そして従来の四島一括返還路線を変更して、歯舞(はぼまい)と色丹(しこたん)二島の先行返還で議論を進めることになっていた。ところがロシアのウクライナ侵攻で今後の領土交渉の展望が見通せなくなった。

 

戦前は北方領土に約17000人の日本人が居住していたそうだ。望郷の念を持っている人がいるのはわかる。気の毒なことだ。しかし戦後もう76年も経っているのだから望郷の念を持つ人の人数はとても少なくなっている。76年間、北方領土はなくても日本はたいして困らなかった。この際、北方領土の返還は経済的なデメリットの方が大きいので、もうあきらめた方が良いのではないだろうか。日本の税金を大事に使ってほしいものだ。


2022年6月号

 

フロリダあるある

 

2015年の夏にニューヨークからフロリダに転居してからこの夏で七年になる。早いものだ。フロリダに転居したのは、夫が循環器系の健康問題があり60才で引退したので暖かい所で暮らすことにしたのだった。ちなみにフロリダと一口に言ってもフロリダ州は実は結構広い。メルカトル図法の世界地図だと赤道に近いほど小さく、北極や南極に近いほど大きく描かれるので、米国の東南端にあるフロリダ州は小さい半島だと思われていることが多いが、実際には面積は日本の本州の四分の三くらいある。私が知っているのはフロリダと言っても主に南フロリダのことだ。

メルカトル図法

フロリダは常夏のハワイのような所だ。避寒地として観光客が押し寄せるハイシーズンは12月から3月末頃までで暖かくて気候が丁度良い時期だ。他州に本宅があり冬場にフロリダの別荘に来る人達は「スノウ・バード(渡り鳥)」と呼ばれていて、彼らは11月頃から来て4月末頃までにいなくなる。残りの夏場は日差しが強烈で連日猛暑だ。

フロリダと言えばハリケーン。毎年のようにフロリダ州のどこかで大きな被害が出る。私が住むフロリダ南東部は2017年にハリケーン・イルマという巨大ハリケーンが襲来したがそれ以来は運良くうちのあたりをそれてくれて、フロリダ州でもアラバマ州に近い北西部のメキシコ湾岸が、ここ数年被害が多かった。フロリダの人はハリケーン慣れしていて準備がいい。停電にそなえて自宅にジェネレーター(自家発電機)を設置している人もいる。ポータブルなジェネレーターも大型スーパーで売られている。家の床は天然石風のタイル張りが主流だ。その方が水害にあっても被害が少ない。我が家はベッドルームだけは板張りにしているが、木目柄のタイル張りも人気だ。

フロリダは冬場が温暖なので引退者が多く移住してくるので、米国の中で高齢者の割合が最も多い州だ。そうは言っても65歳以上の人口割合は約20%。日本は65歳以上の人口割合は約29%なのでフロリダより日本の方がずっと高齢者が多い。フロリダ州内の公道はどこもUターンがしやすくデザインされていてよい。これは高齢者が道を行きすぎても簡単に安全に後戻りできるようにという配慮だそうだ。たしかにニューヨーク州ではそういうのはなくて行き過ぎたらどこかでまがってそこから方向転換して後戻りという作業が必要だった。フロリダは道幅が広く、大きな交差点では右折や左折専用のレーンが二車線もあったりして運転しやすい。

Gated Community

Gated Communityと呼ばれる住宅地がとても多い。数百件でひとまとまりの、塀で囲まれた住宅地で、人の出入りをチェックするゲートがあるのでセキュリティーがよい。55才以上限定の高齢者向けの所と年齢に制限がない所がある。どこのGated Communityにもクラブハウスと呼ばれる共有施設があって、ステージがあるホール、カードゲーム用の部屋、ビリヤード、カフェなどがあり、プール、テニス、ジムなどの運動施設もある。18ホールのゴルフ場が併設されている所もある。これらの管理運営のために専門の職員が何人か雇われている。ちなみに我が家は55歳以上が住むGated Communityの中にある。共有施設が多いのでHOAフィーと呼ばれる管理費・利用料を毎月払わなければならず、我が家は月に540ドル払っている。それに加えて固定資産税も払わなければいけないので結構な支出だ。一般的に米国の固定資産税は日本よりはるかに高い。

近くのスーパーは車で5分だ。週末に行っても特に混んではいない。この辺りは高齢者が多いので別に週末でなくてもいつでも買い物には行けるので週日と変わらない。スーパーにはスーパー内で使える電動車椅子が数台用意されている。会計が終わると袋詰めをしてくれた係員が弱々しい高齢者には「車までお手伝いをしましょうか?」と言って、必要であれば車まで付き添ってカートを押して買い物袋をトランクに詰め込むのを手伝ってくれる。もちろん数ドルのチップがいるが。

フロリダでも特に南部は熱帯雨林気候だ。夏場は午後にスコールのような短時間の強烈な土砂降りが時々ある。さっきまで晴れていたのに急に暗くなって大雨が来て、30分後にはまた晴れる。強烈な土砂降りの中を車で運転するのは危険だ。一度、そういう時にたまたま高速道路を運転中であまりの豪雨で前が良く見えず、のろのろ運転で先頭に立たされて困ったことがあった。誰も私の車を追い越してくれなかったのだ。

フロリダではどこの家にも集中冷房と集中暖房がある。冷房がないと熱中症で死亡者が出るので建物には集中冷房の設置が州の法令で義務付けられているのだ。集中暖房は別に必要ないのだが集中冷暖房という機械設備になっている。我が家では冬場で室温が22度C以下になると寒いと感じるので一月か二月に延べで15日間くらい集中暖房にスイッチを切り替えることがある。しかし暖房は設備があっても全く使わないという家庭も少なくない。集中冷房は基本的に24時間ずっと付けっぱなしだ。温度設定をすれば自動で冷気が流れたり止まったりする。外出時も旅行とかで長期不在の時もつけたままにする。そうしないとフロリダは湿度が高いので家の中がかびて大変なことになるのだ。

フロリダは基本的に湿地帯で構成されているのでほとんどの地域にはガスのパイプラインが来ておらずオール電化だ。限られた一部の地域では都市ガスがあるがフロリダでガスと言えばプロパンガスで、庭で、バーベキューグリルでバーベキューを楽しむ時に使う。ガスが来ていない分、フロリダは他州に比べて電気代が安い。オール電化で冷房を年中つけっぱなしにしても我が家では毎月の電気代は平均して百ドル位だ。

木から落ちたイグアナ

冬場にフロリダとしては夜中から早朝にかけて外気が9度C 以下の低温になる時期が数日あるのだが、その時には「イグアナ注意報」がローカルニュースで出る。木に登って休んでいたイグアナが低温になると失神するので木から落下してくるのだ。イグアナは、普通は小さい猫くらいの大きさだ。それが木のそばを歩いていた人間の頭にあたると怪我をしたり首を痛めたりする。

アリゲーター

爬虫類と言えばフロリダはワニだ。ワニと言ってもクロコダイルとアリゲーターがあるが、フロリダのワニはアリゲーターだ。人を食べたりする狂暴なのはクロコダイルで、アリゲーターは人を食べることはまずない。ただ、水辺でワニが人を引っ張り込んで人が溺死する事故がたまに起こる。2016年にディズニーワールドの中にあるホテルの池で2才の男児がワニに引き込まれて亡くなった事件があった。2018年には47才の日系米国人女性が犬の散歩で池の周りを歩いていたところをワニに引き込まれて亡くなった事件があった。どちらも遺体はきれいだったので溺死だったそうだ。

事故のあったディズニーワールド

フロリダへ冬場のハイシーズンに来る観光客は真っ先にビーチに行く。しかしフロリダ在住者は海岸のそばに住んでいる人以外は滅多にビーチに行かない。ハイシーズンはビーチの近くに車を駐車する所を探すのが大変なのだ。ビーチには行こうと思えばいつでも行けるし、ビーチまで行かなくても家に小さいけどプールがあったり、Gated Communityの共有の大きなプールもある。一方、夏場は猛暑で10分以上ビーチにいると熱中症になりそうになるのでビーチなんて行かない。集中冷房でひんやりした屋内で過ごす。そもそも外出は車で移動なので外を歩くことがとても少ない。外を歩くのは主に犬の散歩の人で、早朝か夕暮れ時の暑さがひどくない時間帯に散歩する。

フロリダは中南米からの移民や出稼ぎの人が多いので、スペイン語をよく耳にする。たとえば私が住むGated Communityの管理マネジャー、カフェの従業員、クラブハウスの掃除人、木や植え込みの手入れをするヤードケアの人達はみんな中南米系でスペイン語が母国語だ。フロリダにはキューバから亡命してきたという人もいる。私は語学が趣味の一つなので今度はスペイン語を勉強してみようかなと思う。

 


2022年7月号

 

米国生活と銃

 

5月24日テキサス州ユバルディ市の小学校で、児童17人と教師2人の合わせて21人が死亡という悲惨な銃乱射事件があった。容疑者は18才の高校生で警察に現場で射殺された。容疑者は吃音があり、低所得母子家庭で母親に服を買ってもらえず高校でいじめにあっていたそうだ。母親とけんかをしてここ2か月は祖母の家で暮らしていた。事件当日は祖母を銃で撃ってから小学校に乱入した。祖母は重傷だが生きている。容疑者本人が死んでいるので動機の解明は困難なままだ。

 

テキサス州のルールでは購入者の最低年齢はライフルは18才、拳銃は21才だ。ライフルは狩猟やスポーツ射撃に使われたりで長い大きな銃なので隠し持つことが困難だが、拳銃は小さいので隠し持つことが可能で犯罪に使われやすいので拳銃の方が21才と年齢が高いのだ。今回の銃乱射事件で使われたのはAR-15半自動ライフルだ。これは殺傷能力が高く銃乱射事件でよく使われるものだ。

 

ちなみに2018年にフロリダ州パークランド市の高校での銃乱射事件で、19歳の男性(その高校を退学した人物)が生徒17人を殺害した事件でも使われたのはAR-15半自動ライフルだった。その後、フロリダ州ではライフルの購入最低年齢も21才に変更された。パークランド市というのは実は我が家から直線距離で15km位の所でかなり近いので驚きだった。パークランド市は平均所得が高い郊外の良い住宅地だ。テキサス州のユバルディ市は地理的にはメキシコに近く、ほとんどの住民はヒスパニック系の住民で平均所得は低い。すなわち、米国ではどんな所でも銃乱射事件は起こりうるのだ。

 

日本では銃の所持はとても厳しい。しかし米国では銃の保持は憲法修正第二条で認められており、かなり身近に銃が存在する。米国に住み始めた1988年、ペンシルバニア州東部郊外の町に住んでいた時、ウォルマートのような大型スーパーでは鍵のかかった商品展示ケースに狩猟用のライフルが売られていた。新聞の広告で入るスーパーのセールの広告チラシにライフルの写真もあってびっくりだった。現在では銃は米国のアマゾンやその他のオンラインでも購入できるが、銃規制法で銃はFFL(Federal Firearms License)を持つ地元の銃販売管理ディーラーに送られ、購入者は要求された書類に記載をし、バックグラウンドチェックが行われてから購入者は銃を手にすることができる。

 

実は私は米国で射撃をした経験がある。生まれて初めての射撃経験は1986年でまだ日本に住んでいた時、ハワイ旅行で観光客相手の射撃場でピストルとライフルを撃った。ピストルは撃つとパーンという乾いた音がする。ライフルはパシューンという感じだ。ピストルはなかなか的に当たらないが、ライフルは筒が長いだけあって命中しやすい。

 

それから米国に渡った1988年、ペンシルバニアの大学で日本語のTA(教授助手)をするために夏に短期間ジョージア州の田舎にある大学で開催される日本語教授法の研修に行った。その時に大学のセキュリティーの男性が日本人数人を自宅に招いてくれたことがあった。彼の家の近くには広い原っぱがあって射撃場になっていた。彼は日本人たちになんと狩猟で使う散弾銃(ショットガン)を撃たせてくれた。散弾銃は多数の小さい弾丸が散発発射する大口径の大型銃だ。そんなもの私たち日本人は見るのも初めて。散弾実包は7センチ位の筒状(散弾が入っている部分はプラスチックで雷管部分は金属)になっている。言われなければそのプラスチックの筒のようなものが銃弾だとは気が付かなかった。散弾銃を撃つときの音はズドーンという重い音だ。大きい銃なので肩にしっかり銃を固定してから撃つのだが、撃った直後に肩に銃のキック(跳ね返り)が来る。

 

私の夫はニューヨークのマンハッタンで生まれ育った生粋のニューヨーカーだ。彼は銃に全く興味はないが、仕事でレミントンという銃のメーカーに出張で訪問した時に会社の射撃場に案内されて数種類の銃を撃ったことがあると言っていた。それだけだ。一方、夫の子供の頃からの親友は銃に趣味があって、ピストルを家に数個持っているそうだ。もちろんライセンス登録していて問題になったことは一度もない。

 

銃と言えばあまりにも悲しい出来事が2013年にあった。夫は5人兄弟で一番上の兄の息子(夫の甥)ダグは40才の頃にピストルで自殺した。ダグは最初の結婚の時、生まれて数か月の赤ちゃんが突然死。それがもとで夫婦は離婚。数年後、彼は勤務していた会社を辞めて30代後半で人を助ける仕事をしたいとそれまでとは全く違う仕事である看護師を目指した。大卒で社会経験がある人が1年半で看護師資格が取得できる集中コースがある大学に入学した。そして大病院の看護師になって一年くらいたった頃だった。当時、彼はまだ法的結婚はしていないが恋人と一緒に暮らしていた。

 

ダグと彼女はつまらないことでけんかをし、興奮した彼は家に保持していたピストルを取り出して彼女に銃口を向けてしまった。驚いて恐怖に陥った彼女はすぐに家を飛び出して警察に連絡した。ダグはすぐ家を出て近くの林の中に入り、そこでピストルで自殺した。誰もダグがなぜ自殺せねばならなかったのか理由はよくわからない。ダグの人生には辛いことが多すぎたのかもしれない。あんなことをしてしまってもう彼女とも終わりになる、もう耐えられないと発作的に思ったのかもしれない。

 

ダグのお通夜とお葬式には病院の同僚たちがたくさん来た。普段は明るい社交的な性格だった。私は夫が急用で行けなくなった時にダグと二人でヤンキースの試合を見に行ったことがある。ダグはコネティカット州に住んでいてヤンキースタジアムまでバイクで来たと言っていた。スポーツが得意で背が高く筋肉質でかっこいい青年だった。

 

ダグの両親はダグがピストルを家に持っていることを知らなかった。もちろん親戚中誰も知らなかった。護身用に持っていたのだろうけど、カッとなってピストルを持ち出したりすることさえなければこんな悲劇にはならなかったはずだ。ピストルさえそこになければ。

 

米国では、親が護身用に保持している銃を子供があやまって撃ってしまっての死亡事故や、自殺や、銃の乱射事件が絶えない。銃の規制を早急にもっと厳しくしてほしい。日本では警察官が保持する銃を一丁盗まれただけで大騒ぎのニュースになるほど銃とは程遠い社会だ。それは本当にうらやましい限りだ。


2022年8月号

 

近場のリゾートホテル宿泊

 

私はマリオット系のクレジットカードを持っていて一泊無料宿泊券があったので、6月末に夫と二人でウェスティン・フォートローダーデール・ビーチリゾートに宿泊した。新型コロナ禍前は一年に二回くらい近場のどこかのリゾートホテルに行ってゆっくりしていたのだが、この二年半は控えていたので久々だ。

 

夫は循環器疾患がだんだん悪化して2021年の春から歩行器を使って歩くようになっていた。それが2022年に入ると酷い息切れで、歩行器ではゆっくりと少しの距離しか歩けなくなった。それで家の中では歩行器、外出時は車椅子を使うようになった。夫は車の運転は2020年の春頃からもう全然してなくて、私が100%運転している。

 

それまでは少し遠くに行くときはいつも夫が運転してくれていたので気楽だったが、今回は私が運転して行かねばならないので、グーグルマップで入念にどういうルートで行くか調べた。うちの車のナビゲーション・システムはいつも最短コースを示し、必ずしも曲がる回数が少ないシンプルな道順を示してくれないので、自分であらかじめルートを決めることにしている。それで当日行先の住所を入れてナビをオンにするが、ナビを無視して運転していればナビは自動再調整してくれるのでそのうち私の選んだルートにあってくる。それでなんとか無事にホテルに到着できた。

 

夫の車椅子は大きな車輪がついた本格的な車椅子ではなく、誰かが押してくれる移動用の簡易車椅子だ。夫はホテルでも室内は歩行器、部屋から出る時は車椅子を使うので、車のトランクにはその両方を入れ、ボストンバッグなどは後部座席に置いた。

 

ホテルの職員も客も誰もマスクをしていない。一応マスクは持っていたが私たちもマスクはしなかった。私たちが予約していたのは部分的なオーシャンビューの部屋だったが、運のいいことにオーシャンフロントの部屋にアップグレードしてくれた。青い空と大西洋が目の前に広がる眺めの良い部屋だ。Accessible roomと呼ばれる身障者用の部屋を選択していたのでバスルームが広々としていて車椅子の人に使いやすいように握り棒が多くついている。夫はバスタブをまたぐことが困難なのでRoll-in-showerと呼ばれるシャワーオンリーの部屋も選べたが、一泊だけだしシャワーはせず体を拭くだけにしたいというのでバスタブのある部屋を選択した。

 

夫は部屋でのんびりし、私だけホテル内の散策をして、それからビーチに出た。真夏なので昼間は猛暑だ。ビーチに出ている人は多くはない。ホテルのプールはちょうど建物の日陰になっていて風も吹いていて比較的涼しいので人が多かった。ジム施設の位置を確認していたら、何らかのビジネスのコンベンションで来ている団体客とすれ違った。夏場のオフシーズンはフロリダのリゾートホテルは値段が安くなるのでコンベンション客が増える。

 

夕食は夫を車椅子に乗せてホテルの一階にあるメキシカンレストランに行った。ドリンク無料券をホテルからもらっていたので、私はハイビスカスとライムが入ったノンアルコールのカクテルを注文した。私は下戸なのでノンアルコールのカクテルがメニューに用意されているのはとてもうれしい。アペタイザーのマグロのトスターダ(トーストされたトルティーヤをベースにしたもの)が素晴らしくおいしかった。それから夫はチキン・ケサディーヤ、私はシュリンプ・タコスを食べたが、どれもとてもおいしくて大満足。

 

ホテルの部屋に戻り海を眺めていた。夏至の一週間後だったので日没が遅くて8時半近くだ。薄暗くなっているのに海の中でまだ遊んでいる若い男性五人のクループを夫が窓から見つけて、もう海から出なくちゃ危ないのにね、セイフガードは午後6時までだしと。そのうち彼らは海からあがった。私はホテルのジムで少しだけ運動してからお風呂に入っていつもよりずいぶん早く就寝。

 

夫が車椅子なのでホテルでは私のすることが二倍になった。夫は動くのが難しいので荷物のパッキングは夫の物も含めて全部私がする。靴下や靴を履かせるのも私だ。夫は無呼吸症候群なのでCPAPという呼吸器をもう15年位前から使っている。夫が元気な頃はてきぱき自分でセットしていたが、今は私がやる。車椅子の人と一緒に暮らすのはなにかと大変で、それまで気が付かなかったことにいろいろ気づかされた。

 

今回マリオットの一泊無料宿泊券というのは、年会費99ドルのマリオット・ボンヴォイ・アメリカンエクスプレスカードの所有者は毎年3万5千ポイントまでのホテルに一泊できるというものだ。3万5千ポイントまでで泊まれるのは高級ホテルではないので今まで使いにくかったのだが、今年の5月頃から自分のマリオット・ポイントを足して5万ポイントのホテルまで宿泊できるようになった。それで今回は気持ちの良いホテルに泊まることができて良かった。

 

日本でもそういうのがあるのかなと思って日本のマリオットのウェブサイトを調べた。気がついたのは、クレジットカードを最初に作る際のボーナスポイントが日本の場合はえらくケチで少ないことだ。そういうことは日本の航空会社のクレジットカードを作る時も同じなので驚かないが、日本はボーナスポイントがあまりに少なすぎるなあと思った。

 

日本のマリオット・ボンヴォイ・アメリカンエクスプレスカードは年会費が無料のものを最初に作る時のボーナスポイントは最初の3か月以内に30万円以上のクレカ使用で一万ポイントが付く。米国で同じタイプのクレカでは最初の3か月以内に二千ドル以上の使用で6万ポイント付与される。日本の年会費23100円のクレカでは3か月以内に30万円以上の使用でボーナスポイントが1万ポイント、そして年間クレカ使用額が150万円を超えると毎年3万5千ポイント相当の無料宿泊券がもらえる。米国で同じタイプのクレカでは年会費99ドルで最初の3か月以内に4千ドル以上の使用で10万ポイント付与。加えて無条件で毎年3万5千ポイント相当の無料宿泊券がもらえる。ボーナスポイントの付与はプロモーションが随時変わるのでいつもこの通りというわけではない。

 

普通のクレジットカードなので別にマリオット関係の物に限らず、何を買ってもよい。私はスーパーやオンラインでの買い物や公共料金の支払いなどにこのクレカをせっせと使って3か月以内に要求される金額を使ってボーナスポイントをゲットして、過去にも高級ホテルに泊まったことがある。

 

家に戻ってから夫は久々のホテル宿泊とレストランをとても楽しんだと喜んでいて本当に良かった。彼は立ったり座ったりするだけでも息が切れるので、外出に車椅子が必要になってからは近くのスーパーにも行かず、出かけると言えば医者か病院だけだったから。これからも体調の良い時を見計らって時々夫を連れ出して夫婦で少し楽しみたいと思う。


2022年9月号

 

夫の介護

 

先月号では近場のリゾートホテルに夫婦で一泊久々に行った話を書いたばかりなのに、夫の病状が悪くなって、その3週間後の7月17日の深夜3時頃に救急車を呼んでデルレイ・メディカル・センターのER(緊急治療室)に運ばれ、その後四泊五日入院した。右心不全とCOPDということだった。

 

夫は現在67才だ。2009年から循環器系の疾患がありNYにいた頃からカテーテルで冠動脈にステント、それから左心房にアブレーション手術をしたことがあり、フロリダに2015年に転居してからも同じようにカテーテルでの手術を何度かしたことがある。カテーテルでの手術はたいてい一泊二日の入院だ。抗凝血剤の長年の服用で内臓出血の際は、胃や腸のどこから出血しているのかわからず検査が続いて三泊四日の入院だった。米国の入院期間は同じ状況でも日本と比べると短い。今回は四泊だったので今のところ彼の連続入院日数の新記録だ。

 

夫は新型コロナ禍が始まった2020年初め頃は杖が必要だったがそれなりに歩けた。それが2021年3月頃にスーパーでペットボトルの水の重いパッケージをカートに入れようとした時に腰を痛めてしまった。新型コロナ禍で家から出ずほとんど家にいたのですっかり筋力も衰えて歩行がさらに難しくなり、歩行器を使うようになった。理学療法士に家に来てもらって筋力をつけようとしたが、痛みがひどくなって整形外科に通い神経ブロックの注射を3回してなんとかなった。

 

2022年に入って1月と2月には足の動脈の詰まりを治療するために左右の大腿動脈と腸骨動脈にステントを血管専門医にしてもらった。3月に入ると脚と鼠径部がものすごくむくんで以前からあった息切れがさらにひどくなった。2月のステント手術の時に鼠径部にあけた動脈の穴を閉じる際に使われた新型のデバイスをおそらく若手の医師に失敗されて、回復に時間がかかっていたのでそのせいかと思っていた。血管と心臓の両方がわかる専門医に診てもらったら、これは血管治療とは関係なく心臓の問題だと言われた。この頃から家の中では歩行器を使うが医者に行くときなど外出の際は車椅子を使うようになった。

 

3月24日には夜中に息が苦しくなって救急車を呼んだ。その時はうっ血性心不全ということで脚だけでなく胴体部や肺にも水が溜まっていた。利尿剤の服用で入院は一泊だった。心臓医によると肺圧が高いので肺に問題がある可能性ということで、その後、4月に肺の専門医に診てもらってCT検査をし、肺にCOPD(慢性閉塞性肺疾患)はあるが、肺というより心臓の問題だろうと言われた。それから5月に心臓医によってアンギオグラム(血管造影検査)が行われ、心臓医によると今のところ心臓は良くはないがそんなに悪くない。やはり肺の問題だろうと言う。

 

そんな感じで様子見だったが、今回7月17日に、また3月24日の時のように息が苦しくなって救急車を呼ぶことに。入院中にCT検査と肺の呼吸検査をして右心不全とCOPDの複合ということがはっきりした。クリニックで日頃診てもらっている心臓医も肺の専門医も同時にデルレイ・メディカル・センターの医師でもあるので入院中も同じ医師が担当する。心臓医は今の段階では心不全専門医に診てもらっても利尿剤を出すだけになるので、肺の治療をもっと積極的にしてもらえるように別の肺の専門医を紹介された。

 

夫は今回の入院前からひどい息切れのせいで体が弱っていて、ある日、クリニックに行くときにリビングルームの長椅子から立ち上がって車椅子に乗ってもらわねばならなかったが、立ち上がることができず、私が必死で引っ張り上げて時間をかけてなんとか車椅子に乗せることができた。成人男性は体重が重いので小柄な私が引っ張り上げるのはすごく大変だ。介護している人はなんとかやっているのだしコツがあるのだろうから、そういう介護の仕方の訓練を受けなければなあと思った。

 

入院中もそうだったが夫は体力が落ちて歩行が危なっかしいので退院後もトイレに行くのに介助人が必要になっていた。強い利尿剤を毎日服用しているので一日に何度もトイレに行く。利尿剤は普通は尿の回数が増えるだけだが夫の場合はなぜか排便回数も増えて大変だ。私は家で夜中に何度も起こされてゆっくり眠れず介護疲れが起こった。今は夫の体力は少し回復して、なんとか夫は一人でトイレに行けることが多くなったので夜中に起こされる回数は減ったのでましになった。

 

夫は退院後、酸素吸入の機械を使っている。退院の時、血中酸素濃度が基準値より低かったので24時間酸素吸入するようにと言われた。しかしそれを毎日していたら鼻が刺激されるせいか鼻血が出るようになったし、血中酸素濃度は基準値に戻っているので、酸素吸入は時々するだけにした。

 

米国には65才以上の高齢者が加入できるメディケアという国民健康保険のようなものがある。メディケアではホームヘルスケア(家庭での必要な医療・看護)は無料だ。退院後から現在、家に週に二回理学療法士が来てくれている。とりあえず一か月来てくれて、査定ののち必要があればさらに延長されるとのこと。それから別に週に二回ナース・エイドが来て夫にシャワーをしてくれている。これは本当に助かる。

 

我が家ではNYからフロリダに転居した七年前にキングサイズのベッドを買ってそれを今までずっと使っていたが、キングサイズのベッドでは夫の介護がしにくいのでつい先日シングルサイズのベッドを二台買った。背と脚の部分が電動でリクライニングするタイプのものだ。夫は息切れが酷いので頭は高くして寝なければならない。それとベッドに乗る時とベッドから起き上がる時に体が弱っているので困難があったが、電動リクライニングベッドならやりやすいので。

 

程度によるが高齢者介護は大変だ。夫は心臓疾患だから将来は突然死になるのかなあとぼんやり考えていたが、こんな風にじわじわと体が弱って介護が必要になるとは実は私は思っていなかったので今回のことでいろいろ学んだ。

 

夫はもう何度も日本訪問はしているが、もう一度日本に旅行に行きたいと新型コロナ禍になる前に言っていた。しかし2020年から続く新型コロナ禍で外出が制限され、夫の病状もどんどん悪化してしまってとても日本に旅行に行くことは無理になった。日本どころかNYに行くのも夫の今の状況では困難だ。近場のリゾートホテルに行くのが精一杯。かわいそうに夫は2018年春の日本訪問が最後でもう日本には行くことはないだろう。

 

 

日本にいる私の91才の母親は認知症が進んでいる。私のことがわからなくなる前に会いに行きたいのだが、2019年11月から私は日本に全く帰省できていない。新型コロナがおさまったら日本帰省しようと思っていたが夫の病状悪化で夫を一人にするわけにもいかず、日本帰省が困難なままだ。夫がもっと回復してくれないものか。日本の母親も元気で待っていてほしい。


2022年10月号

 

突然の日本帰省~母に会うために~

 

8月18日から24日まで日本5泊(うち空港ホテル2泊、実家3泊)という超短期の日本帰省をした。飛行機の移動時間もあるのでフロリダの家を空けたのは6泊。スーツケースも持たず機内手荷物だけだった。

 

先月号で、新型コロナ禍で2019年11月から日本に全く帰省できておらず、新型コロナが一定程度おさまったら日本帰省しようと思っていたが、私の夫の病状悪化で夫を一人にするわけにいかず、なかなか日本帰省が困難なままになっていると書いた。その後、8月10日に日本の兄から連絡があった。母(91才)が口から食べるのが困難になってきて、米国在住の私は早々に母に会っておくほうが良いと医師に言われたと。年齢が年齢なので胃ろうも中心静脈栄養(心臓の近くの太い血管から点滴で栄養を摂る方法)もしないことにした。母は認知症が進んでいるが、癌でもないし内臓的に死に至る病があるわけでもない。いわゆる高齢のため食べられなくなって、老衰で自然に死亡することになる。

 

新型コロナ禍で刺激が少なすぎたせいもあり、母の認知症はどんどん進んで今年に入ってからは母は常時眠っているような感じで、うつろでほとんど会話ができない状態になっていた。母が入っているサ高住は看護師常駐で医師も定期的に来るので普通の点滴だけなら最期の看取りまで可能だ。兄がスマホで母と一緒に画像電話を時々くれるので母の様子はわかってはいたが、もう食べられないとなると先が短い。生きているうちに会わなければ意味がない。

 

急遽、日本帰省することになって、さあ準備が大変と思っていた矢先の8月11日の夜、夫が歩行器でリビングルームからベッドに行こうとして転倒。彼は足に力がほとんど入らないので一旦お尻が床に付いたら立ち上がれない。私は自分より大きくて重い彼を引き上げることはできない。救急車を呼んだ。去年にもそういう転倒はあって救急隊員の男性二人が抱えて彼を立ち上がらせてくれてそれだけで終わったことがあった。しかし今回は変な落ち方をしたので膝を痛めていたし、7月に右心不全とCOPDで4泊5日の入院から3週間後だったし、体がかなりむくんでいたので救急隊員は彼をデルレイ・メディカル・センターのER(緊急救命室)に連れて行った。また入院になったらどうしようと思っていたら翌朝の6時に帰宅許可になった。

 

夫を一人にしておくわけにはいかない。高齢者施設への短期入所を調べたら最低2週間以上でないと預かってくれない。2週間施設に入るか、日本滞在を短くして近くに住む夫の娘に来てもらうか。彼女に聞いたら1週間ならOKと。夫にどうしたいか聞いたら娘に来てもらう方がよいとのことで、そうなった。それで私は夫の介護ですること、面倒のみかたなどを細かく6ページの紙に急いで書いて彼女に渡した。

 

問題は深夜の夫のトイレだ。夫は転倒後の数日は弱っていて一人でトイレに行けなかった。夜中に何度も起こされて私が介助した。米国人は日本人と違って幼少の頃に親と一緒にお風呂に入るという習慣はないので親の裸なんか見たことないし見たくもないというのが普通だ。彼女には夫のトイレの世話は困難だ。しかしだんだん歩き方は良くなっているので私が留守の間は彼は一人でトイレに行けると思う。うちを6泊留守にするだけなのでなんとかなりそうだと思った。

 

急な日本帰省の準備と夫の介護と私が留守の間のアレンジでとても忙しくなって、8月11日からは毎日行っていたジム通いと家でのエクササイズを休止。特に夫の転倒で夫が弱って夜中に何度もトイレに行くのでその介助が大変で私はよく眠れなかった。夫は利尿剤を服用しているし、息切れが酷くて一つ一つの動作に時間がかかるのでベッドから起き上がらせてまたベッドに寝かせるまで、一回のトイレに20分かかるのだ。日本帰省する前から私は肉体的にも精神的にもとても疲れていた。

 

それから、はらはらさせられたのは日本政府が外国からの日本入国者に要求する、72時間以内の新型コロナ陰性証明を取ることだった。なんとか地元の大手の薬局で検査をしてもらって陰性証明が8月16日に取れてほっとした。ちなみに9月7日から日本政府の方針で3回ワクチン接種済みの人は陰性証明は不要になるので、次回日本帰省するときは簡単だ。

 

8月18日は朝の6時45分発という早朝便でフロリダのフォートローダーデール空港を出て、テキサスのヒューストンで乗り換えて成田空港に19日の夕方に到着。リムジンバスで羽田空港に移動して羽田空港内にあるホテルに宿泊し、翌朝20日の午前7時発の便で広島へ。そして実家にたどり着いて、少しゆっくりしてから午後2時に母がいるサ高住に兄が車で連れて行ってくれた。

 

8月は日本でオミクロン株の新型コロナが激増中で、原則的に高齢者施設は面会禁止になっていた。しかし私の場合は特殊事情なので15分間の面会が許された。私は外国から来たということで結果がすぐ出る簡易検査キットで陰性確認。それから兄と私はなんと防護服、手袋、マスク、フェイスシールド、ヘアキャップを装着するように言われて、ロビーの一角でビニールのカーテン越しの面会だった。兄の話では今までの面会はビニールのカーテン越しではあったが防護服なんてことは一度もなかったと。

 

母は車椅子に乗せられてやってきたが、いきなり宇宙人みたいな恰好をした二人を見てどう思ったのだろうか。母はいつもは眠ったような時間が長いのだが、この時は運よく目がけっこう開いていた。こんな格好では認知症が進んだ母にはわからないだろうと思い、本当はいけないのだけれど、私はビニールのカーテンの端から手を伸ばして母の手を握ったりさすったりして一生懸命に声をかけた。「佳子(よしこ)よ、わかる?」「佳子が会いに来たよ。長い間会いに来られなくてごめんね。」「私を生んで育ててくれてありがとうね。」母は弱っていて話すことができない。でも何か言いたそうな感じだったのでたぶん私が会いに来たことは分かったと思う。

 

それから一日置いて、二回目の面会は8月22日。この日は前回と同じように防護服等のフル装備であったが、母の部屋で面会をさせてくれた。ドア閉めれば誰も見ていないし、私はフェイスシールドもヘアキャップも取った。マスクも一時とって顔がはっきりわかるようにして必死で話しかけた。母は話すことができないので会話はできなかったが、母の体をさすったり抱いたりすることができた。食べられないのですっかり痩せて足が腕のように細くなっていた。

 

看護師の話ではまだ少し口から食べることができているそうで、点滴のみにはなっていないそうだ。もう食べられない状態と聞いていたがもう少し大丈夫そうということで良かった。医師とは電話で話し、今回帰省して母に会うことができて良かったと感謝を伝えた。そして最期の時は海外在住者というものは親の死に目には会えないかもしれないという覚悟はできているので、私が到着するのを無理に待たなくてもいいから、母が楽に自然に逝けるようにお願いしますと伝えた。

 

翌8月23日には広島から東京に移動し、成田空港近くのホテルで一泊した。24日の午前10時発の飛行機で、帰りはニューヨークのJFK空港経由で、さらにノースカロライナ州のシャーロット空港で乗り換えて、フロリダの家には24日の午後5時半ごろ無事到着。帰りの便はチケットの都合で乗り換えが多く接続の時間も短かったのだが、機内持ち込み手荷物しかなかったのでロスト・バゲージ(スーツケース等の紛失)の心配がなく気楽だった。

 

新型コロナ禍で親の死に目に会えなかった、お葬式にも行けなかったという友人は何人もいる。このタイミングで日本帰省できて本当によかった。これより遅いと母の認知症がどんどん進んで私のことがわからなくなっていたと思う。お別れはしっかりできた。悲しいが母は老衰なのでしかたがない。生きた母を見るのはあれが最後になるのかもしれないと思うと涙ぐんでしまう。


2022年11月号

 

高齢者介護 ~米国での現実~

 

二か月前に「夫の介護」について書いたが、基本的にその続報でフロリダ州での一例であることをまずことわっておきたい。夫は67才。2009年から循環器系の疾患があり、冠動脈に複数のステントをしている。数か月前に肺も悪いことがわかり、右心不全とCOPDの複合だ。歩行困難で立ち上がるのに介助がいる状態。息切れがひどく5メートル歩行器でゆっくり歩くだけでぜいぜいする。最近は一日18時間くらい酸素吸入している。最近まで家の中では歩行器、医者に行くときなど外出時には簡易車椅子(小さい車輪が四つで誰かに押してもらうタイプ)を使っていたが、数日前に家の中でも一人で動けるように通常の車椅子(後輪が大きくて自分で手を使って動かせるタイプ)を購入した。

 

夫は8月11日、9月13日、9月20日と二か月の間に3回も自宅で夜に転倒で救急車を呼ぶ事態が起こった。うち一回は軽かったので救急隊員に二人がかりで立ち上がらせてもらうだけで済んだが、二回は検査が必要だったので大病院のER(緊急治療室)に連れていかれて翌朝家に戻った。夫は長年にわたって抗凝血剤を服用していて出血しやすい。転倒で頭を打つと脳内出血の心配がある。骨折はなかったが、今後も転倒が続くと大変なことになるので、家の中でも車椅子を本格的に使うことにした。

 

米国では65才以上になるとメディケア(日本で言う国民健康保険のようなもの)に加入できる。車椅子はメディケアを使って購入すれば個人負担は2割。それで購入したいと思ったが、私が希望する新型の軽量タイプの車椅子はメディケアが効かないと言われた。メディケアで購入できるのは重い標準タイプのものだ。重い車椅子だと折りたたんで車のトランクに私が一人でそれを積むのは難しい。オンラインのアマゾンで探して、たいして高くはなかったので全額個人負担で新型の軽量タイプを購入した。600ドルのものがいいなと思ったが、350ドルのを買った。

 

夫は毎日強い利尿剤を服用しているので、夜中に何度もトイレに行く。普通は利尿剤では排尿回数が増えるだけだが、夫の場合は体質なのだろうが排便回数も増えて、トイレに行くたびに両方する。尿だけなら夜間はおむつの利用で何とかなるのだろう。いまどきは大人の3回分の尿を吸収してくれるオムツがあるし。しかし夫の場合は両方なのでオムツ替えの方が大変になるのでトイレに連れて行く。ベッドから起こしてトイレに連れて行って、終わったらベッドに連れて帰ってベッドに乗せて寝かせるという作業は一回で20分位かかる。それが夜中に三回位あって、さらにベッドから起き上がってペットボトルの水を飲むだけとか、足が痛むので痛み止めの薬を飲むだけとかが、夜中に二回位ある。夫の隣で寝ていると物音がするので目が覚める。トイレに行くなら一緒に行かなければならないので、トイレなのか起き上がっただけなのか毎回夫に尋ねることになる。

 

人間はトイレに行きたくなったら自然に目が覚めるものだ。しかし隣で寝ている私は眠りの深いときなどにいきなり起こされるわけだ。それにトイレ介助で一回に20分もかかったら目が覚めてしまう。そういうことが夜中に何度もあったらたまらない。私は7月初めごろからこんな状態で睡眠がよくとれず介護疲れがひどくなった。

 

私は日頃は低血圧気味だったのに、大したことはないが高血圧になった。免疫力が下がったせいか8月23日ごろから膀胱炎になってこれが厄介だった。若い頃はときどき膀胱炎になったことはあったが、長年大丈夫で2年前に久々に一度なっただけだった。その時の抗生剤が少し残っていたし水をたくさん飲んでごまかし、ごまかし何とか自力で治そうとした。抗生剤を少し飲んで調子は良くなったのだが、ぶり返しが来た。今度は夫が持っていた別の抗生剤を飲んですっきりしたと思ったらまたぶり返しが来た。もう自力では治すのは無理とあきらめて医者に診てもらうことにした。しかし予約がすぐにはとれない。

 

テレヘルスと呼ばれるオンライン診療でも医師は予約が満杯だったが、ナース・プラクティショナー(上級看護師で処方箋を出す資格を持つ診療看護師)に翌日(10月3日)に予約が取れたのでテレヘルスで診てもらった。予約の時間に私のスマホに電話がかかってきて画像通話をする。患者側はあらかじめ何も特別なアプリケーションをダウンロードする必要もない。これは便利だ。軽い病気ならこれで十分だ。尿検査はラボ施設に行って行い、その日のうちに薬局で抗生剤を買うことができた。それでなんとか良くなったところだ。

 

とにかく私は健康でなければならない。私が病気になったら夫の介護ができない。睡眠は十分にとることが大事だ。それで深夜12時から朝の8時まで介護人を9月19日から雇うことにした。ホームヘルスケアの施設に相談したら、エージェントを紹介してくれてそこから派遣されてくる。私は超夜型人間で普段は午前3時ごろ寝て朝の10時か11時頃起きる生活だったが、夜中の2時頃から来てくれる人なんていないので、その時間帯になった。私はその時間に合わせて寝起きせねばならなくなり、午前1時前ごろに寝て、朝8時前に起きる生活になった。

 

時給22ドルで一日8時間で週5日来てもらっている。ということは月に20回と計算して3250ドルかかる。1ドルをいくらで計算するかにもよるが1ドル145円で計算すると月に471250円だ。円で計算するとびっくりするような金額になる。米国在住者で介護で使える保険を個人的に買っている人もいるが保険料が高いし、夫も私もそういう保険を買っていなかったので全額自己負担だ。米国で家に来てくれるベビーシッターを雇っている家庭はそのくらい払っているのだからまあいいかと思った。老後のために貯めたお金はこういう時のために貯めたのだし。

 

私は事前に夫の介護の仕方についてどういうことをしてほしいか3ページに紙に書いて準備した。最初に来てくれた介護の女性はアン・マリー。中南米出身の黒人で50代くらい。彼女にまずそれを読んでもらったが彼女はたった3ページを読むのにえらく時間がかかっていた。読み終わってから一通り動作を示して説明。どうも彼女は英語力が低く、発音が悪くて彼女が何を言っているのかよくわからないことがあった。指示通りにやっていない部分もあった。彼女は3日間来て病欠。代わりの女性、マノウシュが来た。中南米出身で彼女は30代。のみ込みが早く仕事は優秀だった。子供の送り迎えの都合で朝7時までしかできないというので7時までだった。2日間やってハリケーン・イアンがフロリダ州を襲った。うちのあたりは停電もなく被害は全然なかったが嵐の夜中に来てもらうわけにはいかなかったので一日休み。

 

それからエージェントがアン・マリーは病気が酷くなって当分来られないので朝8時までできる人で別の人を探してくれて、リナが9月29日から来てくれている。彼女は中南米のハイチ出身でもう20年米国に住んでいて13才の娘がいるそうだ。40代だと思う。仕事はよくできるし英語が今までの三人の中で一番通じる。この原稿は10月8日に書いていて彼女が来始めて7日間が過ぎたところだ。もともと夜型の人なら連日の夜勤は問題ないだろうが、大丈夫だろうか続くだろうか心配になって、彼女に聞いたら午前11時から寝ていると。

 

私は夜中の介護人を雇うことになってから、夫とは別の部屋で一人で寝ているので静かだ。夜ぐっすり眠れるようになって良かった。夫が呼んでいると介護人が夜中に私を起こしに来ることがこれまでに三回あった。それは夫が私でなければわからないだろうと思った用事と、夜中に具合が悪くなってニトログリセリン(狭心症の薬で舌下錠)を服用する時だった。土日は介護人が来ないので夜中に夫に起こされるが、部屋は別にしたのでブザーで呼ばれてトイレ介助の時だけで済んでいる。

 

今のところこんな感じでやっているが、私の91才の母は最期のステージなのでいざというときは日本帰省を二週間位することになると思う。昼間の介護は私がやっているがそれができなくなるので、その時は二週間夫を預かってくれる高齢者施設を使おうと考えている。

 


2022年12月号

 

米国中間選挙2022

 

11月8日は米国で二年に一度の中間選挙の日だった。今回は上院100議席のうちの35議席が改選、下院は435議席の全部が改選。現在は11月10日だが上院も下院もまだ民主党と共和党のどちらが過半数を取るのか決着がついていない。現時点で上院は民主党が48議席、共和党が49議席(過半数取得には51議席必要)、下院は民主党が198議席、共和党が211議席(過半数には218議席必要)だ。

 

下馬評では、下院は共和党が過半数を取るのは確実で、上院は接戦だが上院も共和党がとるかもしれない、共和党のレッド・ウェーブ(赤は共和党のシンボルカラー)が起きて民主党が惨敗するのではということだった。しかし結果は意外にも民主党が健闘した。まだわからないが上院はきわどい所で民主党が過半数を死守する可能性。下院はこのままいくと共和党が過半数を取る見込みだ。

 

当初から上院選はペンシルバニア州、アリゾナ州、ネバダ州、ジョージア州の四州の接戦が見込まれていて、上院の過半数を取るのは民主党か共和党かはこの四州で決まると言われていたがその通りになった。ペンシルバニア州は民主党が取ったが、アリゾナ州とネバダ州は郵便投票の開票に時間がかかっていて結果は来週になりそうだ。ジョージア州は民主党と共和党どちらの候補も50%を取ることができず、12月6日に決選投票となった。

 

なぜ民主党が惨敗するだろうという下馬評が出たのかは、マスメディアではすでにいろいろな解説が出ているだろうが、米国在住者の一人として私はそうなるだろうと感じるものがあった。とにかくバイデン大統領が不人気だったのだ。結果としては民主党が惨敗することはなかったというのは、バイデン支持と言うよりも、反トランプに救われたのかもしれない。トランプ氏が万が一また米国大統領になったら困るという切実な思いだろうか。バイデン大統領が不人気なのは、激しいインフレなどのことはすでにメディアで言いつくされているので、メディアはあまり口にしないが、米国庶民が感じていることを紹介したい。

 

そもそも私はこれまでずっと民主党支持だったが、今回の中間選挙は共和党に勝ってほしいと思っていた。急激な利上げによって起こったのは激しいインフレだけではない。銀行預金や債券など比較的安全な投資商品に資金が流れて、株式市場全体が下降。庶民の老後の虎の子である401Kなど確定拠出の個人年金の残高が大きく下がったのだ。

 

401Kはほとんどはミューチュアル・ファンド(投資信託)で、ハイリスクからローリスクのものまで様々な選択肢がある。ローリスクのものを選択していた人はそんなに大きく下落しなかったかもしれない。59・5才になるまでに特別に許された理由以外で401Kから資金を引き出すと、引き出した金額に10%のペナルティーが付くので、多くの人は引き出すことを避ける。401Kでどのミューチュアルファンドにどのくらい投資するかの乗り換えはいつでも変更可能だが、ほったらかしの人が多い。

 

たとえば401Kの残高が夫婦合わせて年始には1億円の残高があったものが10か月で25%も落ちたら2500万円も残高が減ったということだ。投資は自己責任とはいえ、これは庶民感情としては大いに怒る。トランプ大統領の時代はずっと株式市場が上り調子で401Kの残高がどんどんあがってウハウハだったのにと思うのだ。

 

それから、ウクライナ支援で巨額の税金が使われているのを快く思わない庶民も少なくない。そんなお金があるならもっと国内問題に使ってほしいという思いがある。米国は世界一の経済大国ではあるが、庶民はそんなに豊かな暮らしをしているわけではない。たとえ年収がそこそこ高くとも、住居費、教育費、医療費、保育費、食費等の生活費が高いので生活が苦しい人は多い。

 

そもそもロシアがウクライナに侵攻した当初、米国はウクライナのゼレンスキー大統領を亡命させる準備をしていた。ゼレンスキーが亡命していれば1週間か2週間くらいで終わり、こんな大きな戦争にはならなかった。元々米国はウクライナの国境がどうなろうと大して興味はなかったのだ。反ロシアのプロパガンダとしてウクライナを使うことができればそれでよかったのだ。しかしゼレンスキーが「武器くれ、くれ」で米国の言うことを聞かなかったので、米国としてはこうなったらウクライナに血を流してもらって、今後のために少しでもロシアの戦力を弱体化させたいということになった。

 

もちろんウクライナのために第三次世界大戦になることだけは避けたいので米国が直接ロシアと戦うことはよほどのことがない限りないだろう。米国がウクライナに支援を続けるといつまでたっても戦争が終わらない。世界中が迷惑している。民主主義、国際秩序、国際法遵守など後回しでいい、目の前の現実の方が大事だ、これ以上死者を出すな、ウクライナ支援はもうやめて停戦に向けて米国は力を注いでほしいという気持ちを一定の庶民はもっている。

 

中間選挙で民主党が大敗しなかった要因の一つは、妊娠中絶禁止に対する反発も大きいと思う。たとえば共和党が強いテキサス州は妊娠中絶禁止になったので、別の州に転居する人が出ていると聞く。州に不満があれば出ていけばいいわけだ。国家も同じで出国の自由があることが最も重要と思う。良くない国からは国民が出ていくので国家は存続が困難になる。

 

ソ連時代は共産主義国家で国民は自由に出国することはできなかった。東欧諸国も東ドイツも中華人民共和国も出国の自由がなかった。ソ連が崩壊してロシアは共産党の一党独裁は終わり、複数の多党制の国家になった。北朝鮮は現在も出国の自由がなく国を出るには命がけで亡命するしかない。共産主義の国ではとても労働者が夢のような良い生活ができることはなく、結局国民を縛り付けておかないと逃げられてしまうような国だったということだ。現在、ロシアは出国の自由があるのでロシアに不満な人は今も出国しているわけだ。その点ではウクライナが男性を出国禁止にして戦わせているのは人権問題があると思う。

 

国だけでなく会社も似たようなものだ。労働市場の流動性が高く次の職が比較的すぐ見つかるような環境なら、従業員はどんどん会社を渡り歩くことが可能だ。会社は優良な従業員を得るために労働条件や労働環境を良くせざるを得ない。そうして良い循環が生まれる。

 

世界は少数の大国が派閥を作っている。派閥のボス国とその派閥に属する国々、そしてその他大勢の諸国で構成されている。一つ一つの国は現実レベルでは対等ではないのだ。日本は米国派閥で優秀な子分国だ。ウクライナはロシア派閥で右腕だった。それが別の派閥に移ろうとするのなら、きちんと事前に根回しをして、お土産を置いて出るくらいしないと派閥のボス国に叩かれるのは当然の成り行き。ゼレンスキーは政治は素人なので外交の失敗があった。ロシアと対等であるがごとくふるまうから失敗したのだ。独立国家とはいえ、悲しいがそれが地球社会の現実なのだ。

 

国境線で紛争が起こっているのはウクライナだけではない。世界にそういう紛争国はいくつもあるのに、ウクライナ問題だけがおおごとになっているのはやはり米国の思惑の影響が大きいと思う。私は米国が好きだし米国在住者ではあるが、ウクライナ問題についてはバイデン大統領のやり方には大いに反感を感じている。ぬちどう宝(命こそ宝)だと思う。


2023年1月号

 

結婚式、花嫁の父

 

11月12日土曜日は、夫の娘キムの結婚式だった。キムは夫の前妻との間の娘だ。彼女は大学卒業までニュージャージー州に住む母親と一緒に生活していた。私は彼女が10才の頃から知っている。米国では子の共同親権が認められているのでNYマンハッタンに住む夫のアパートに二週間に一度週末に来て一泊していた。あの幼かったキムが立派な女性に成長し、こんなに美しい花嫁に。感慨深いものがある。

キムとロブ(キムの夫)の結婚式は本当は2020年11月のはずだったが新型コロナ禍で二年延期に。キムも私も二年前にすでにドレスを買っていたので、この二年何が何でも体重を増やすわけにはいかず、せっせとジムに通い、食事にも気を付けて体型をキープ。

結婚式は南フロリダの郊外にある牧場を改装して作られた宴会場で行われた。木製の巨大な馬小屋をきれいに作り直した建物の中に、待合室、新婦の部屋、新郎の部屋、カクテルアワーの部屋、ディナーの部屋などがある。とても個性的で自然派の結婚式だ。結婚式のセレモニーは屋外の芝生の上で行われた。晴れて良かった。米国では結婚式そのものは教会で行うか、結婚式場やホテルの庭の芝生の上に椅子を並べて行うのが一般的だ。

我が夫、ラリー(68才)は長年の循環器系疾患で心不全とCOPDがある。2000年には杖で歩けていた。それが2021年には歩行器で歩くことになり、2022年には体が弱って車椅子になってしまった。結婚式場を選んだときは、夫はまだ歩けていたので、セレモニーの時、芝生の上で車椅子を押すことが難しくなることは考えていなかった。私は当日ハイヒールにロングドレスだ。滑らかな床なら問題ないが、芝生の上で車椅子を押すのはものすごく力がいって困難だ。夫の席までは夫の弟が車椅子を押してくれた。

米国の結婚式では花嫁にはbridesmaidと呼ばれる女性(親しい友人等が5人位おそろいのドレスを着る)が付き添い、花婿にはGroomsmanと呼ばれる男性(親しい友人等が5人位おそろいのスーツを着る)が付き添う。まず彼らが入場してから花婿が入場。そして花嫁の入場だ。本来は、花嫁入場は花嫁の父親と二人で出てくるのだが、花嫁は一人で歩いて出た。結婚の誓いを交わす。花嫁の父親である我が夫は感無量で涙していた。ここまで来るのに本当に長かった。

夫はキムが7才の時に前妻と離婚。夫はキムを溺愛していて、彼のマンハッタンのアパートのいたる所にキムの写真が置かれていた。二週間に一度土曜日に車でニュージャージーの家にキムを迎えに行って、日曜日に送り返した。夏休みやクリスマス等の長い休暇のある時は一週間位マンハッタンの我が家にキムは泊った。夫はキムが長く滞在した後はとりわけ寂しさがつのって、キッチンの小さい窓のところで涙していた。キムはとても良い子で、学年で2番になるほど学校の成績も優秀だった。中高生になっても二週間に一度週末に父親の家に泊まることを嫌がることもなかった。

それが大学卒業後まもなくキムはロブと出会って、あろうことか親に内緒で法的にロブと結婚してしまった。ロブは英国人でまだ米国で安定した職についておらず経済力がなかった。キムは親が反対するのはわかっていたので内緒で強引に法的結婚を実行したのだった。ニュージャージーの家でその書類を母親が見つけて、これは何だということになって、父親である我が夫ラリーの落胆ぶりは激しかった。まさか娘が親に黙って結婚してしまうとは。娘の結婚式やウェディングドレスの晴れ姿は父親の夢だ。それをロブが奪ってしまった。ラリーは泣いてしばらく立ち直れないほどの落ち込みようだった。

まもなくキムとロブはフロリダ州に引越していった。それが2012年だった。その後キムとロブは親と和解し、2015年に私とラリーはNYマンハッタンからフロリダ州のキムの家の近くに転居した。ラリーは健康問題もあり60才で引退を考えていた。ラスベガスという案もあったが、私は是非フロリダでキムの家の近くがいいとラリーに勧めたのだった。

フロリダに転居後は時々キムとロブも一緒に夕食をともにしたり、家族として互いに助け合い、絆が深まった。ロブは誠実で良い青年だ。キムはラリーに一度もロブの悪口を言ったことがない。喧嘩はするだろうが、ああいういきさつがあっただけに父親に泣きつくことだけはしないと心に決めているのだろうか。

2019年の夏だったか、キムとロブが我が家に遊びに来ているときに急にキムがまじめな顔になって「2020年の秋に結婚式をしようと思っているの。今、どこで結婚式をしようか探しているところ。」と言った。ラリーも私もびっくりして顔を見合わせた。彼らは、もう結婚式はする気がないのだとばかり思っていた。結婚式をするなんてこんなうれしいことはない。私はすぐにそれは素晴らしいことだと返事をした。ラリーはちょっと複雑な表情をしていたが、うれしいに違いない。あまりの突然でうまく言葉が出なかったのだろうと思う。彼らが帰った後で、キムの結婚式をみることができるなんてとラリーと私は抱き合って喜びをかみしめた。その後、彼らには結婚式は家族の問題だから、私たちは親として費用を援助すると申し出た。そして彼らは式場を決めて、私たちの援助がなければこの式場に決めることはできなかったと私たちにとても感謝した。

そして2022年になってしまったが、ついに結婚式の日が来たのだった。結婚式もたけなわ、披露宴はいかにもアメリカンでDJがいてどんどん曲を流す。挨拶は友人たちがスピーチするだけ。特別にラリーがスピーチをしたいと言い出したので、ケーキカットの前に短いスピーチをした。キムが子供の頃の心温まるよい話だった。ケーキカットの後はずっとダンスパーティーになる。外出時間が長くラリーが疲れるので、ラリーと私は会場を早く出て家に帰った。

ラリーは五人兄弟の四番目で、兄が二人、姉が一人、弟が一人いる。皆NY周辺に住んでいてクリスマスには全員がラリーの姉の家に集まるのが恒例だった。ラリーと私がフロリダに転居してからは全員が集まるのは難しくなっていたので、こうして五人兄弟とその配偶者たちが全員集まったのは久々だ。こうしてキムの結婚式を見ることができ、兄弟全員が集まって本当に幸せな日となった。


2023年2月号

 

夫の死~悲しみのどん底に~

 

2022年12月4日に我が最愛の夫ラリー(68才)が逝ってしまった。ちょうど一か月前のことだ。死因は心臓と肺の梗塞、及びうっ血性心不全だった。老衰で亡くなりそうな91才の私の母より先に、まさか夫が死んでしまうとは。私はあまりのショックで立ち直れないでいる。この原稿も涙ぐみながら書いている。

 

11月12日に夫の娘キムが結婚式をあげて花嫁の父として夢がかなって幸せな日を送ったばかり。その8日後の11月20日に息が苦しくなって救急車でデルレイ・メディカル・センターのERに運ばれ、ICU(集中治療室)へ。新型コロナでもインフルエンザでもない普通の風邪からの肺炎が引き金だった。熱はなかったし、咳も日常的にしていた程度だったし、酷い息切れも日常的にあったので、まさか肺炎を起こしているとは本人も私も思っていなかった。医師に深刻な状態だと言われた。ICUにいて必死の治療で数日後に危機から脱し、ああよかった、これから快方に向かうと思っていた。しかしICUに入って二週間目、心臓と肺の疾患が元々かなり良くない状態だったので、回復が困難な状況におちいった。

 

誤嚥するので水を飲むことは許されず、棒の先についた小さいスポンジに水を含ませたもので口の中をくるくるさせるだけ。夫は喉も口もからからで声が出にくく何を言っているのかわからないうめき声。時々何を言っているのかわかる程度。意識の混乱もあってわけのわからないことを叫ぶ。たくさんつながれている管を無意識に抜き取ろうとするので、両腕を拘束されていた。見ているのも本当につらかった。

 

12月3日、医師に「もう助かりません。緩和ケアだけするようにホスピスに移しましょう。」と言われ同意した。私は病院から家に帰る15分間の通い慣れた道を運転していて、涙があふれて止まらなかった。ハンドルを握りながらでは涙をぬぐえないので瞼を強く閉じて涙を切った。信号で赤になるたびに助手席に置いたティッシュで涙を拭いた。泣きながら運転するのはよくない。

 

12月4日、ホスピスに移る手続きを事務所でしてから夫の病室に行った。夫はもう経鼻栄養の管も抜かれて点滴も外されていた。しばらくして夫がゴホゴホと咳き込んで息ができなくなった。顔がフリーズしている。看護師が来て、医師が来て、コード・ブルー(容態急変の緊急事態発生)がアナウンスされた。大勢の医師や看護師たちが駆け込んできた。まるでテレビドラマで見るシーンのようだった。私はCPR(心肺蘇生法)の最中は廊下に出された。娘のキムに電話した。数分後に看護師が来て「まだCPRを続けますか?患者は痛くて辛いと思いますよ。」と。私は「もういいです。」と言った。看護師が“Stop!”と大きな声で叫びCPRは終わり、医師も看護師もあっという間に去って行った。

 

人間は呼吸や心臓が止まっても数分間は聞こえているそうだ。私はCPRが始まる前と終わった後、必死で夫の耳元で語りかけた。“Larry, Larry, I love you! Thank you, Larry. I’ve been so happy since I met you. I am sorry I couldn’t make you live longer...” 廊下で突然ワーッという泣き声が聞こえた。キムが到着して看護師に父親の死を知らされたようだった。キムが来た時、まだラリーの体は暖かく、私と二人でしばらくラリーのそばにいた。ラリーが亡くなる時、私がそばにいて一人ではなかったのは良かった。

 

夫が亡くなったその晩、夜の11時半ごろ私は外に出て月や星に向かって「ラリー、どこにいるの?聞こえてる?アイ・ラブ・ユー。あなたと出会ってから私はずっと幸せだった。介護ストレスが溜まってたまにきつい言葉を投げてしまったりして本当にごめんね。もっと優しくしてあげればよかった。天国でラリーのお父さんとお母さんに会えた?私のお父さんにも会えたかな?」などと語りかけた。それから家に戻って私はラリーがいつも寝ていたベッドで寝た。ラリー包まれている感じが欲しかった。

 

夫がこの世からいなくなった初めての朝、私は家の中に飾ってあった夫が映っている写真全部に”Good morning, Larry.”と言って回った。涙があふれた。歯を磨きながら泣いているとミントの味を喉の近くまで感じた。私はまた一人になってしまった。精神的にボロボロで酷くつらい。日頃あんなに気が強くて、たとえばツイッターで多勢とは全く異なる意見を堂々と発信し、どんなに叩かれても炎上しても全く平気な私なのに。私の急所は夫だったか。私がこんなにも弱くてもろかったとは自分でも驚いている。キムの方が私よりしっかりしていた。

 

夫は生まれも育ちもNYのマンハッタンで、兄弟も親戚もみなNY周辺在住なのでお通夜とお葬式はNYで行うことになった。私はキリスト教では土葬だからフロリダで遺体をエンバーミング(衛生保全防腐処理)してそれをNYに送ろうと考えていた。しかし義姉とキムにそれは大変だから、フロリダの葬儀場で火葬だけしてもらって壺に入った灰をNYの葬儀場に送ってお通夜とお葬式をするほうが良い、今どきは火葬をする人が増えていてそれで大丈夫だ、と言われてそうすることにした。私は精神的にも何もできる状態ではなく、フロリダでの火葬のことはキムに任せ、NYでのお葬式関係のすべての準備は義姉に任せた。

 

夫が最後に日本に行ったのは2018年だった。夫はもう一度でいいから日本に行きたいと言って、日本で行きたい所やしたいことのリストを作っていた。その後、新型コロナ禍になって、その間にだんだん体調が悪くなり、2021年頃から歩行器を使うようになった。2022年に入ってからはどんどん体が弱ってきて、車椅子を使うようになった。7月から酸素吸入も始め、8月頃には一人でトイレに行くのも困難になっていた。日本どころかNYに行くのも無理な状態だった。NYに行きたかっただろうに生きて行くことはできず、灰になってNYに戻ったのは何と悲しいことか。

 

ラリーと私は2000年にNYで出会って、2002年に結婚した。10月12日に結婚20周年を祝ったばかりだった。まさか夫にクリスマスが来ないなんて全く思っていなかった。夫に渡そうと思って早めに買っておいたクリスマスカードは渡す相手がいなくなってしまった。夫の存在が私にとってこんなにも大切だったということをあらためて知った。ラリーは本当に良い夫だった。ありがたいことに私なんかをいつも愛してくれて大事にしてくれて、愛情面で不安を感じさせることがなかった。不安だったのは健康面だけだった。

 

夫は大学時代はアイスホッケーの選手で、私と出会った2000年頃は全く健康だった。それが2009年頃から心臓疾患があって、これまでに冠動脈にステントを8個、不整脈もあってアブレーション(経皮的心筋焼灼術)を4回もしていた。2022年に入ってうっ血性の心不全が進んでいた。肺もかなり良くない状態だということがわかっていた。いつかこういう日が来るのを私は覚悟していたつもりだったが、現実には全くそうではなくこんなにも落ち込んでしまった。

 

2022年の大晦日、カウントダウンで2023年の新年になって、毎年私の横にいてHappy New Year!のキスと乾杯をしてくれた夫がいない。”Larry”と呼んだら”Yes, Honey!”と返事をしてくれる夫がいない。ジムから家に戻った時「今日、ジムはどうだった?」と聞いてくれる夫がいない。NYからフロリダに転居したのは引退生活をのんびりと楽しく夫婦で一緒に過ごすためだった。しかしもう夫は逝ってしまったのでフロリダにいる理由がなくなってしまった。このフロリダの家はとても気に入っているが、ここにいると夫との思い出が詰まりすぎていてトンネルから抜けられない気がする。

 

私は「フロリダで残りの人生をのんびりするなんてだめだ、今のステージに終止符を打って次のステージに進め」と神様にいきなり背中をどつかれた感じがする。出会ってから夫との22年間は幕が下りた。物事が起きることには意味がある。今その意味がわからなくても、いずれわかる時が来る。

 

2023年という新しい年が始まった。とても仲の良い夫婦だっただけに、夫を失って今も毎日辛くて涙しない日はない。しかしいつまでも後ろを向いていてはだめだ。夫が天国で私を見守ってくれている。前に進まなくては。新しい扉を開く時が来たのだ。私の2023年は激動の年になりそうだ。頑張れ、私。


2023年3月号

 

日本全面帰国を決意~新しいステージへの準備~

 

最愛の夫、ラリー(68才)が12月4日に亡くなってからちょうど二か月たった。5週間たったころからだんだん一人の生活にも慣れてきて、毎日涙が出るということはなくなった。12月はあまりの悲しみでストレス性の蕁麻疹が酷くてお葬式の頃はたいへんだったが、良い皮膚科医のおかげでずいぶんよくなった。まだ少し症状は残っているが。

 

長いニューヨーク生活からフロリダに転居したのは2015年の夏だった。夫は循環器系疾患があったので早めに60才で引退した。フロリダは気候が暖かく血液循環にもいいし、なんといっても夫の娘、キムがフロリダに住んでいたのでその近くに住むことにしたのだった。

 

フロリダに来て最初の一年は賃貸住宅に住み、翌年にアクティブ・シニア向けのゲイティッド・コミュニティー内にある家を購入した。新築でまだ建築中の時に買ったので、床のタイルや板の色、天井のデザインのアップグレード、システムキッチンの色やデザインなどいろいろあって自分たちの好みのものを選択できた。私たちはこの家をとても気に入っていた。ずっと長く住んでのんびりと引退生活を二人で楽しく過ごしたいと思っていた。

 

しかし夫はもう逝ってしまったのだ。ここの生活は夫あってこその場所だった。私はフロリダに来てからはずっと在宅でオンラインで仕事をしていた。2022年には夫の介護が大変になって仕事は少ししか受けていなかった。特に2000年からは新型コロナ禍もあって近所の人たちともほとんど接触がなかった。散歩ですれ違う時もソーシャル・ディスタンスで互いに距離を取っていた。夫はかなりの基礎疾患があり、万一新型コロナにかかったら死亡する可能性が高かったので、私は新型コロナウイルスを絶対家に持ち込まないようにすごく気を付けていた。夫も私もあまり社交的なほうではないのでフロリダにはあまり友人がいない。私がこのフロリダの家に一人で残ってもつまらない。

 

夫の病状がだんだん重くなってきて、あとどのくらい夫は生きられるのだろうかと去年の夏ごろいろいろとネットで調べた。するとこういう状態の人は2年生存率が5割という記事を見つけた。そうかぁ、あと2年くらいか、でもきっともう少し長く生きるよね、私が70才くらいになってからかもなあ、とか考えていた。それがお別れの時が予想よりずっと早く来てしまった。

 

ちなみに今日、2月4日は私の65才の誕生日だ。ラリーと2000年に出会ってからは毎年誕生日には誕生日カードをもらい、ラリーと二人でレストランに行ったりして祝ってもらった。今年は一人ぼっちの誕生日。もともと長い間一人だったから元に戻っただけと言えばそうだが。

 

私は以前から夫が亡くなったら全面的に日本帰国しようと考えていた。私にとって米国は仕事をする上で最高に良い所だった。私は極めてキャリア志向が強かったのでニューヨークで働く機会を得て、思う存分働けて満足した。日本にいたらくすぶったままだったと思う。もう仕事はほとんど引退したので米国にずっといる理由もなくなった。米国に自分の子供がいれば別かもしれないが、私には子供はいない。

 

日本と比べると米国は医療費も介護費もとても高くて大変だ。それに何といっても日本には日本人の口に合う食べ物がたくさんある。何かで読んだことがあるが、人間は11才ごろまでに食べた物を一生おいしいと思って食べるらしい。私は日本生まれ日本育ちで、米国に住むようになったのは30才の時だ。米国の高齢者施設で毎日ラザニアとかハンバーガーとか食べたくない。私は毎日白いご飯が食べたいのだ。

 

高齢になるとだんだん体が悪くなって歩けなくなったりする。最後に残るのは食べる楽しみではないだろうか。私が高齢になってからの生活で優先順位が高いのは食事の満足度だ。それに高齢になって脳がぼやけてくると母国語がでてくると聞く。高齢者が外国で一人で暮らすのはなにかと障害が多い。

 

一月後半ごろから私は日本帰国に向けて準備を徐々に進めている。まず夫の所有物をどんどん処分した。夫はなんでも記念記念と言って物をため込むのが好きだったので片付けるのが大変だ。大事なものは彼の娘に渡した。家にあるものも日本に持って帰るもの以外はどんどん米国のメルカリ(オンラインで私物を売るサイト)で売却したり、近所の人に無料であげたりした。日本に全面帰国となると私の所有物は最低限にしなければならない。長年引っ越しをしていないので私の物もずいぶん溜まっていて、取っておくものと捨てるものの選択に時間がとてもかかる。

 

それに配偶者が亡くなってからの様々な事務的な手続きに時間がかかっている。夫の年金の問題、生命保険の受取、銀行口座、家、車の名義を共同名義から私だけの名義への変更、夫名義のクレジットカードの解約、自宅の売却のための準備などいろいろあって、結構忙しくしている。できれば3月末までにすべて終えて、4月中に日本に帰国したいと考えているのだが、どうなるかわからない。日本のどこに住むかもまだはっきりとは決めていない。とりあえず実家に戻るが。

 

私の気持ちが日本に向かうことで、夫を亡くした深い悲しみからだんだん抜け出し明るい気持ちになれる。今回日本に全面帰国を決意したのは、なんだか日本に戻って来い戻って来いと引かれるものを感じるからだ。夫との幸せな生活を終わらせたくはなかったがもう終わってしまった。私は人生の新しいステージに入って行くしかない。こういうふうに吸い込まれるように新しい場所に行くときは何か良いことが待っているのだ。私の今まで生きてきた人生でそうだった。ラリーも天国から私を見守ってくれている。きっと大丈夫。

 


2023年4月号

 

マイアミ観光

 

私がニューヨークから南フロリダのデルレイ・ビーチに転居したのは2015年の夏。マイアミの約130キロくらい北に位置する。マイアミには2016年の11月に夫と二人で一回行ったきりだ。いつでも行けるからと思って実はまだたいしてマイアミ観光をしていなかった。フロリダを去る前にマイアミ観光をしたいなと思っていた。

 

そんな時に世の中には優しい人がいるもので、ツイッターで知り合ったマイアミ在住の30代の日本人女性Aさんが観光案内をしてくれると。私が去年の12月に夫を亡くして落ち込んでいたのでなんとか気分を変えて慰めになればと思ったのだろう。ありがたい。

 

一月末でマイアミは寒くも暑くもない丁度良い気候。一泊二日のプランを立ててくれた。彼女はカーニバルという大型クルーズ船で働いているので、その大型クルーズ船内を特別に見学させてくれると。初日にまずそのクルーズ船内でランチしてから内部の見学、そのあとマイアミの有名なサウスビーチへ行って、その後、現代アートで近年人気急上昇のウィンウッドという所へ行く。二日目はキューバ料理の有名なレストランでランチして、リトル・ハバナの観光だ。

 

私はマイアミ郊外の高級住宅地にあるビルトモア・ホテルに泊まることにした。以前からこのホテルに泊まってみたいなあと思っていたので丁度良い機会となった。ビルトモア・ホテルのロビーで午前10時半に待ち合わせた。Aさんとはツイッターで話したことはあるが本人に会うのは初めてだ。初日、時間通りに会ってAさんの車で出発。

 

まずカーニバルのホライゾンという名前の大型クルーズ船に乗船する。客が約四千人、職員が約千人で合計五千人もの人が乗る巨大クルーズ船だ。乗船するには五階建てのビルになっていているドックから入る。マイアミ港は世界からの巨大クルーズ船が集まってくるところだ。同じような巨大クルーズ船が6隻くらい停泊している。空港と同じようにセキュリティー・チェックを通ってからゲートに入る。

 

船の中に入るとまずきれいな装飾のロビー。人がすでにたくさんいる。この船はこの日の午後5時に出港なので乗船客は4時までには戻れ、マイアミから乗る客はその時間までに乗船せよということになっているそうで、ランチタイムにはもう客がぞくぞく戻っている感じだった。まず、ランチだ。自由に食べたいものをとれるカフェテリア形式のコーナーが6か所くらいあって、それとは別にレストランが五つくらいある。バーもカフェも何か所もある。私たちはアジア系のレストランに入ってタイ料理を食べた。クルーズ船は特別なものを除いて飲食込みの料金制度になっているので無料だった。それから船内のプール、子供の遊び場、バスケットボール・コート、テニス・コート、映画館、劇場などを見せてもらった。カジノまである。天気の良い日で屋外は青い空ときれいな海。気持ちよい。

 

私たちはそのあと車で移動してサウスビーチへ。マイアミビーチといえばこのサウスビーチのことだ。賑やかで昼間からラテン系の音楽が流れている。有名なファッションデザイナーであるベルサーチが自宅前で狙撃されて亡くなったという場所の前を歩いた。そこは自宅が改装されてレストランになっていた。サウスビーチの砂浜を少しだけ歩いた。海と陸をはさむ砂浜の幅がほかのビーチよりかなり広いなと思った。

 

それからウィンウッドへ。ここはもとは低所得増の居住地だったが開発プロジェクトで現代絵画を壁にどんどん描くという町おこしが功を奏して、近年、観光客が集まるようになった新しい観光スポットだ。Aさんはちょっと前まで無料で入れたアートセンターが入場料を12ドルも取るようになってるなぁと言っていた。

 

その後、私たちはビルトモア・ホテルに戻って、ホテルの中をあちこち散策。ビルトモア・ホテルは歴史あるクラシックホテルで建物も内装もとても威厳があって美しい。プールも高級感があってとても広くてすばらしい。管理の行き届いたゴルフコースもある。それから一緒にレストランでディナー。二人ともサーモン料理を注文した。品の良いおいしさだった。

 

翌朝、午前11時にまたロビーで待ち合わせてAさんが車で迎えに来てくれた。マイアミでキューバ料理といえばここ、ベルサイユという名前の有名なレストランでランチ。名前のイメージとは違ってカジュアルな雰囲気だ。いろんなキューバ料理が少しずつ入っているという盛り合わせとキューバン・サンドイッチを注文。飲み物はキューバン・コーヒー。ミルクに練乳が入っていて甘いのが特徴だ。おいしい。

 

その後、リトル・ハバナというキューバの首都の名前をとった地区を観光。看板はみなスペイン語だ。キューバといえばキューバ産の葉巻が有名。あちこちに葉巻を作る作業場があって葉巻の店がある。米国とキューバに全く国交がない時代はなかなかキューバの葉巻が手に入らず、キューバの葉巻といえば米国内で貴重品で高額で取引されたと聞く。

 

Aさんによれば、マイアミは場所によってはスペイン語ばかりで英語が通じないところがあると。そういう地域のローカルなスーパーに入って英語で話すと白い目で見られて、なんでスペイン語できないのみたいなこと言われたことがあると。たしかにマイアミはフロリダ半島の南端で中南米と目と鼻の先。スペイン語の人が多い。私が住むパームビーチ郡はトランプ元大統領の別荘があるところで、リゾート地でもあり、ジューイッシュやニューヨーク周辺からの移住者が多く、もちろんスペイン語の人も多いがマイアミほどには多くない。

 

私たちはホテルに戻って駐車場に停めた私の車の前でAさんとさよならをした。本当にこんなに楽しいのは久しぶりだった。私に笑顔が戻った日となった。Aさんの優しさ、御恩は一生忘れない。